これがイタリア政策と呼ばれるものです。, 結局イタリア政策は失敗に終わりました。 神聖ローマ帝国の始まりは、962年に東フランク王国のオットーが、マジャール人などの撃退に成功したことから、ローマ教皇からローマ帝国皇帝の冠を授けられたオットーの戴冠にあるとされているが、「神聖ローマ帝国」という国号が現れるのは12世紀のことである。 『受験世界史の地図』は、「高校世界史の知識+α」のレベルで世界史を解説するサイトです。, ライン川とドナウ川がローマ帝国との境界だった。ドイツ西部には下ゲルマニア属州が築かれ、都は今のケルンにおかれた。, 4世紀、西欧各地でゲルマン民族の国が勃興する。ガリアで誕生した最大のゲルマン国家がフランク王国だ。, カール大帝は、フランス・ドイツ・イタリアを支配下に収め、統一した。カール大帝は、本拠地をアーヘンにおいていた。アーヘンはオランダ・ベルギー国境近くのドイツである。, カール大帝の死後、最終的にフランク王国は、870年に東フランク王国・西フランク王国・イタリア王国に分割。それぞれが現代ドイツ・フランス・イタリアの原型になっていく。, 900年代中盤のイタリア。情欲に溺れた教皇ヨハネス12世により、政治が乱れていた。, 政治的庇護者を欲したヨハネス12世は、962年、東フランク王オットー1世にローマ皇帝の帝冠を授けた。, 理念的には古代ローマ帝国の復活であり、ドイツとイタリア北部にまたがる「神聖ローマ帝国」が成立した。, 神聖ローマ皇帝は、キリスト教の司教の任命を通じて、帝国を統治しようとする(王国教会体制)。, しかし、教会の堕落を憂えた教皇グレゴリウス7世は内部改革を進め、神聖ローマ皇帝の司教の任命権を認めなかった。, 対立する皇帝ハインリヒ4世を破門した。貴族の離反を恐れた皇帝は、カノッサ城の前の雪の中で三日三晩土下座し、許しを乞うた。, 例えば、司教座都市ケルンも自立化した都市の一つだ。ゴシック様式のケルン大聖堂が建設されている。ケルン大聖堂は約156m。, リューベックを盟主とするハンザ同盟は、北海・バルト海の交易を支配する都市同盟に発展した。, ドイツの地方分権傾向は、1254~73年、神聖ローマ皇帝がいなくなった大空位時代にさらに進んだ。, 1356年、カール4世の金印勅書により、神聖ローマ皇帝が選挙によって選ばれることが明文化され、地方分権はさらに進んだ。, 神聖ローマ帝国は特定の首都を持たなかった。その時々に皇帝がいた場所で会議が開かれた。これは「旅する王権」と言われる統治方法である。, 14世紀、ボヘミア(今のチェコ)出身のカール4世は、プラハを大々的に整備。ローマ・コンスタンティノープルに並ぶヨーロッパ最大の都市に発展した。, ちなみに、カール4世と同時期にハプスブルク家のルドルフ4世(建設公)がウィーンを発展させた。ウィーンは、15世紀以降、神聖ローマ帝国の実質的首都となる。, ハプスブルク家はスイス出身の貴族である。1273年に神聖ローマ皇帝になったルドルフ1世以来、徐々にオーストリアが本拠地になっていく。, 1438年より、神聖ローマ皇帝位はハプスブルク家の世襲が始まり、ウィーンが神聖ローマ帝国の首都となる。, また、結婚によりマクシミリアン1世が当時最大の経済大国ネーデルラント(今のオランダ)を世襲すると巨大な経済力を手にした。, さらに、大航海時代を席巻し「陽の沈まぬ国」となったスペイン王位も継ぎ、ヨーロッパ随一の王家となった。, スペイン王家も兼ねたカール5世だったが、社会は大きな変化の時期に差し掛かっていた。宗教改革である。, ローマ・カトリックを徹底的に批判したのが、ルターである。聖書を権威とするプロテスタントを創始した。, 神聖ローマ皇帝としてカトリックを維持したいカール5世は反対。しかし、1555年、アウクスブルクの宗教和議でプロテスタントを認めた。, 1618年、カトリックを強制する神聖ローマ皇帝フェルディナントに反発して、民衆が皇帝の使者をプラハ城3階から地面に投げ落とした。この事件は(第二次)プラハ窓外放出事件と呼ばれる。, 皇帝は戦争を開始。近隣諸国の介入もあり、1648年のヴェストファーレン条約での終結までに、30年を要した。, 三十年戦争でドイツの人口は、2000万人から1600万人に激減。ドイツの発展は遅れた。, ヴェストファーレン条約では、プロテスタントと地方貴族の主権を認めた。高校教科書では「帝国の死亡診断書」とされる。しかし現在この見方は否定されている。, 神聖ローマ皇帝を世襲するオーストリア=ハプスブルク家は、フランス・オスマン帝国と戦った。, ウィーンには外観はバロック様式、内装はロココ様式のシェーンブルン宮殿が建造された。, 特に、1740年に即したフリードリヒ2世は、啓蒙専制君主と呼ばれ、「上からの改革」を断行。「君主は国家第一の下僕である」の名言を残した。, ポツダムにはロココ様式のサンスーシ宮殿が建造された。また、1791年にはベルリンのシンボルとなるブランデンブルク門が建設された。, 神聖ローマ帝国内で二大勢力となったプロイセン・オーストリアは1740年ついに衝突。, 1789年、フランス革命が勃発。王政が打倒された。そして、フランス人民の英雄ナポレオンが出現した。, ドイツはナポレオンの侵攻の前に屈服。1806年に、神聖ローマ帝国は解体。800年以上にわたる歴史に幕を閉じた。, フランスに侵略されたプロイセンでは、ナショナリズムが高まり、統一への機運が盛り上がりはじめた。, オーストリア主導で旧来の伝統的秩序を維持する国際的反動体制ウィーン体制が成立した。, なぜなら、フランス革命は「王権の打倒」「民族の自立」を意味するので、多民族国家オーストリア帝国とは相容れないからだ。, ちなみに、1848年はドイツ人カール=マルクスが『共産党宣言』を発表した年でもある。, 国際政治をコントロールしたオーストリアに対して、プロイセンは国内の経済統合を推進した。1834年、ドイツ関税同盟が成立。プロイセンを中心とした市場が出現した。, プロイセンとオーストリアの対立は、1866年、プロイセン=オーストリア戦争として具現化した。勝者は鉄血宰相ビスマルク率いるプロイセン。, 多民族国家となっていたオーストリアはハンガリー人の協力を得るために、1867年にオーストリア=ハンガリー二重帝国となる。, プロイセン=フランス戦争を経た1871年、南部のバイエルンも含むドイツ帝国が成立した。, オーストリア中心の神聖ローマ帝国を第一帝国、プロイセン中心のドイツ帝国を第二帝国という。, 北ドイツの政治的統一がなされた1867年、極東の地では大政奉還が宣言された。1868年には明治新政府が樹立。, 1873年には岩倉使節団が到着。ビスマルクの言葉「世界は弱肉強食が実情である。プロイセンが貧弱だった幼い頃に味わった小国の悲哀と怒りを忘れることができない。貴国も万国公法を気にするより、富国強兵を行うべきだ。さもなければ植民地化の波に飲み込まれるだろう。」は、明治日本の世界観となった。, 同盟国オーストリアも敗戦。サン=ジェルマン条約で、オーストリア=ハンガリー二重帝国は解体。オーストリア共和国が成立する。, ワイマール共和国は戦後賠償金に苦しみつつも、徐々に経済を回復させていく。しかし、1929年に世界恐慌が発生。600万人もの失業者を出した。, ナチス党は戦後体制の打破と失業対策を打ち出し、没落しつつある中間層の熱狂的な支持を獲得。, 合法的な手段で政権与党に上りつめ、1933年、合法的に独裁政権が誕生した。ナチス=ドイツの独裁体制下にあるドイツを第三帝国という。, ナチスは1939年、ポーランド進攻を開始。第二次世界大戦が勃発。1940年にはパリを陥落させた。, こうして、一時はヨーロッパ大陸全土を手中に収めたが、1945年にソビエト連邦によりベルリンが陥落した。, 1961年、東ドイツから西ドイツに逃れる市民を食い止めるために、ベルリンの壁が建設された。ベルリンの壁は、アメリカとソ連の冷戦を象徴した。, 1989年、ポーランドやハンガリーで民主化が達成。東ドイツ市民は民主化が進まないことに不満を抱き、他国経由での逃亡を図るようになった。, その中で、1989年11月9日、旅行条件の大幅な緩和が発表される。しかし、「即時」の「自由交通」ができると誤って伝えられ、会見から5時間の間に数万人の群衆が終結。, 東西ベルリンは再び行き来が可能になり、その後東ドイツが西ドイツに編入される形で東西ドイツが統一された。こうして現在のドイツ連邦共和国が成立した。, 管理人の「しまうま」です。 世界史のブログ書いてる人です。 ・Pinterest ・Facebook に公式アカウントが存在します。, Eine Rede von Adolf Hitler (アドルフ・ヒトラー氏の演説). カール大帝が亡くなった後、フランク王国は領土の分割相続で3つに分裂してしまうのです。, フランク王国が3つに分裂したことで、ローマ教皇はまたもや困ってしまいます。 2, Prag 1938, S. 63. https://books.google.com/books?id=YmYDAAAAQAAJ&pg=PA223, http://www.dejepis.com/ucebnice/cesky-stat-za-jagelloncu/, The Kingdom of Bohemia during the Thirty Years' War, https://books.google.cz/books?id=Vxaq_7TSWI4C&pg=PA33&lpg=PA33&dq=Brandenburg+bohemian+crown&source=bl&ots=vP1oltXatf&sig=ly8atwd2elitzebZ9Y8CGNqprOI&hl=cs&sa=X&ved=0ahUKEwjJgP3jpcDMAhUBCpoKHSPjBXkQ6AEIQjAE#v=onepage&q=Brandenburg%20bohemian%20crown&f=false, https://books.google.cz/books?id=g89phgpRZOEC&pg=PA338&dq=, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=ボヘミア王国&oldid=79162555. ローマ教皇としては新たな自らの保護国を得る必要性に迫られたからです。, そんな中、東フランクのオットー1世が力を認められ、ローマ教皇から戴冠されます。 神聖ローマ帝国の正体は、実はあまりぱっとしない、ローマ教皇の権威で成り立っていた帝国だったのです。, 私は現役教師ではありません。しかし、教員免許取得と家庭教師の経験を活かし、中学生の皆さんに中学校歴史教科を楽しく、わかりやすく解説しています。 西ローマ帝国の皇帝とは、単なる帝国の皇帝ではありません。, 神の使いとして、地上を支配する。それが西ローマ帝国の皇帝なのです。 神聖と言う割には、とりわけ神聖な何かが存在するわけでもない。, 神聖ローマ帝国とは、すなわちよくわからない国なのです。 自国の統治もままならず、イタリア政策もままならない状況に、ローマ教皇もいらだち始めました。, 皇帝の力が弱く、教皇の期待に応えられない。 そこでオットー1世初め、代々の皇帝はイタリアを勢力下に入れようと力を入れます。, ローマ・カトリック教会があるローマを支配すること。 【ホンシェルジュ】 西ローマ帝国の後継を称し、約1000年にわたって続いた神聖ローマ帝国。中世ヨーロッパ史を知るうえで欠かせない存在です。この記事では、帝国の始まり、大空位時代、最盛期、そして滅亡にいたるまでの歴史をわかりやすく解説。 一体何者?なのでしょうか。, しかし、神聖ローマ帝国には、さほど権力がある皇帝がいたわけでもなく、ましてその子孫が跡を継ぐわけでもありません。 こうして誕生したのが西ローマ帝国と東ローマ帝国でした。, 西ローマ帝国は首都をローマとし、東ローマ帝国はコンスタンティノープルを首都としました。, 東ローマ帝国は、ビザンツ帝国と名称を変え、1453年にオスマントルコに滅ぼされるまで存続しました。 それは西ローマ帝国の後継として、最重要課題でした。, そのため幾度となくイタリアを攻略しようとしました。 Graf Kaspar Sternberg: Umrisse einer Geschichte der böhmischen Bergwerke, Bd. ※神聖ローマ帝国の名称が付いたのは、13世紀になってからのことです。, ただ、地図からおわかりのように、誕生当初の神聖ローマ帝国はローマにかすりもしていません。 しかしいずれも地図上に名前が記されているのみで、特になんの説明書きもありません。, どことなくミステリアスな雰囲気を漂わせるこの神聖ローマ帝国 当時の神聖ローマ帝国の皇帝はハプスブルク家の全盛期を築いたカール5世でした。彼の治世にハプスブルク家はドイツだけでなく、スペイン、ネーデルラント、オーストリア、ボヘミア、ハンガリー、南イタリアまで領土を拡張していました。 ローマ帝国は395年に、分割相続の問題で2つに分裂します。 フランク王国(フランクおうこく、ラテン語: Regnum Francorum, フランス語: Royaumes francs, ドイツ語: Fränkisches Reich )は、5世紀後半にゲルマン人の部族、フランク人によって建てられた王国。 カール1世(カール大帝・シャルルマーニュとも)の時代(8世紀後半から9世紀前半)には、現在のフラン … ※同じことは東のビザンツ帝国皇帝にも当てはまります。, しかし、このフランク王国の全盛期も長続きはしませんでした。 ボヘミアにおけるゴシック建築は年代別に3期に分けられる。13世紀から14世紀前半(主にプシェミスル朝の時代)はゴシック前期、14世紀から15世紀(主にルクセンブルク朝の時代)はゴシック盛期、およそ1471年から1526年のヤギェウォ朝の時代はゴシック後期と呼ばれる[44]。ボヘミアの著名なゴシック建築家としては、ペトル・パルレーとベネディクト・リートが挙げられる。. それが神聖ローマ帝国です。, 幾度となくイタリア政策をし続ける神聖ローマ帝国。 徐々にローマ教皇との間に軋轢(あつれき)が生まれます。 Bezirke; チェコ語: Okres)に再編された。, エーリヒ・ツェルナー『オーストリア史』(リンツビヒラ裕美訳、彩流社、2000年5月)、149-150頁. 浅野啓子(1990)「十五世紀フス派革命におけるプラハ四ヵ条」,『社會科學討究』35, p.59-82, 早稲田大学アジア太平洋研究センター. ふと中学生の歴史教科書(東京書籍)をパラパラめくっていると、とても荘厳な名前を持つ国が突如現れます。 その名は神聖ローマ帝国です(教科書77ページ) さらにパラパラめくっていくと、101ページの宗教改革あたりで再度登場します。 しかしいずれも地図上に名前が記されているのみで、特になんの説明書きもありません。 どことなくミステリアスな雰囲気を漂わせるこの神聖ローマ帝国 一体何者?なのでしょうか。 結論から言いますと、よくわからない国としか言えません。 帝国とは、権力ある … 当サイトを通して、歴史を学ぶ楽しさを知って頂けたら幸いです!. よくわからないのですが、教科書にはちらほら出てくる名前ですので、気になる方も多いことでしょう。, 神聖ローマ帝国の成立背景には、ローマ・カトリック教会のある思惑が絡んでいます。 962年のことでした。, こうして誕生したのが神聖ローマ帝国です。 ボヘミア王国 České království (チェコ語) Königreich Böhmen (ドイツ語) Regnum Bohemiae (ラテン語): 神聖ローマ帝国 領邦 (1198–1806) ボヘミア王冠の王冠領 (1348–1918) 選帝侯国 (1356–1806) ハプスブルク帝冠領(1526–1804) オーストリア帝冠領 (1804–67) オーストリア=ハンガリー帝国のツィスライタ … 一方、西ローマ帝国はゲルマン人の侵入により、476年に滅びてしまいます。, 当時、西のローマ・カトリック教会と東のコンスタンティノープル教会は対立関係にありました。 世界遺産ペトラ遺跡を有する中東の国ヨルダン。一体どんな国なのか、想像すらつかない方も多いのではないでしょうか。この記事では古代から近現代までの歴史を、独立の経緯や隣国イスラエルとの関係なども含めてわかりやすく解説してい... 国家と特定の宗教が結びつくことは人権の弾圧に繋がりかねず、歴史を振り返ってみてもさまざまな問題が生じてきました。そこで日本では「政教分離」という制度が導入されていますが、一体これはどのようなものなのでしょうか。アメリカ... ペルシア湾の湾岸にある小さな国、クウェート。巨大な油田があり、現在は石油産業で経済が成り立っています。一方で「湾岸戦争」の要因がイラクによるクウェートへの侵攻だったことも有名で、これまで数多くの危機にさらされてきました... テロリズムの温床、泥沼の紛争地という印象が強いアフガニスタン。一体どのような経緯で争いの場となってしまったのでしょうか。この記事では紀元前からさかのぼり、アフガニスタンの歴史をわかりやすく解説していきます。理解が深まる... 世界最大の国土面積をもつロシア。言わずと知れた超大国ですが、一体どのような経緯で現在の姿になったのでしょうか。この記事では、キエフ・ルーシ時代からロシア帝国、革命、冷戦、ソ連崩壊などロシアの歴史をわかりやすく解説してい... 2020年3月11日、WHO(世界保健機関)は「新型コロナウイルス感染症(COVID-19)」のパンデミックを認定しました。この記事では、ペストやスペインかぜなど、有史以来人類に大きな被害をもたらしてきたパンデミックの... 「世界一訪れることが難しい国」といわれてきた中東の大国サウジアラビア。2019年にビザの発給が開始され、注目が集まっています。この記事では、女性の人権や石油産業、建国からの歴史などをわかりやすく解説。またおすすめの関連... 今大注目の若手俳優・瀬戸利樹をご存じでしょうか? 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帝国の中心がローマではなく現在のドイツにあたる東フランクにあること、それにも関わらず歴代の東フランク王がローマ王となり、その帝国が神聖ローマ帝国と呼ばれるのも、キリスト教社会の中心が教皇のいるローマだったからなのです。, しかし、皇帝と教皇の関係が常に良好なわけではありません。互いに封建領主だということもあり、領土問題などさまざまな紛争で対立関係に陥ることもあります。, その背景には皇帝の直轄地がドイツと北イタリアなどの一部に限られていて、帝国の大半が300以上の教会領や貴族領、帝国自由都市などの独立した政体で構成されていたという点があります。皇帝の力は必ずしも盤石なわけではなかったのです。, そもそも神聖ローマ帝国に明確な首都はなく、皇帝は領邦内を巡回しながら統治をしていました。しかし諸侯の力が増すにつれて皇帝の移動範囲は狭くなり、最終的には自分の領地から出ることさえ難しくなっていったのです。, 11世紀後半から12世紀後半にかけて教皇の発言力が増すと、司教や修道院長の任命権をめぐる「叙任権闘争」に皇帝ハインリヒ4世が敗れ、教皇の地位が優勢になっていきました。, ハインリヒ4世が敗れる原因となったのは、神聖ローマ帝国の皇位継承の仕組みです。神聖ローマ帝国ではゲルマン民族の伝統にのっとった選挙制でローマ王が選出され、教皇から戴冠を受けることで初めて皇帝を名乗ることができました。, 「叙任権闘争」にて、皇帝は教皇の廃位を宣言しますが、教皇も皇帝の破門を宣言します。この時、投票権をもつ諸侯が教皇側につき、ハインリヒ4世に代わる新たなローマ王の選定に動きました。, 皇帝には諸侯を敵に回すだけの力はなく、ハインリヒ4世は雪が降るなか、教皇が滞在するカノッサ城の門前で裸足で許しを請うことになるのです。これが有名な「カノッサの屈辱」と呼ばれる事件です。, これ以降、皇帝の立場は教皇だけでなく、投票権をもつ諸侯に対しても劣勢となっていきました。その結果、1254年から約20年間、ローマ王位が空白になる事態になります。これを「大空位時代」と呼びます。, 1254年、ローマ王コンラート4世が亡くなりホーエンシュタウフェン朝が断絶すると、コンラート4世と対立していたウィレム2世が現存する唯一のローマ王となりました。, 「神聖ローマ帝国」という国号は、このウィレム2世が初めて使用したもの。それ以前は「ローマ帝国」もしくは単に「帝国」と呼ぶのが一般的でした。, しかしウィレム2世も1256年に死亡。ローマ王位が空になります。この事態を受けて1257年に、諸侯によってローマ王の選挙がおこなわれることになりました。, ローマ王として選出されたのは、イングランド王ヘンリー3世の弟であるコーンウォール伯リチャードと、カスティーリャ王アルフォンソ10世の2人。いずれも帝国外からの候補者でした。, コーンウォール伯リチャードを推薦したのは、ケルン大司教、マインツ大司教、ライン宮中伯。カスティーリャ王アルフォンソ10世を推薦したのは、トリーア大司教、ザクセン大公、ブランデンブルク辺境伯、そして当初はコーンウォール伯リチャードを支持していたものの鞍替えしたボヘミア王オタカル2世です。, 血統ではフリードリヒ1世の孫娘を母にもつカスティーリャ王アルフォンソ10世の方が有利でしたが、ローマ教皇の反対や国内の反乱によって皇帝位を戴冠することができずに終わります。また、所領が金の産地だったことから莫大な富をもち、その経済力を背景に諸侯の支持を得たコーンウォール伯リチャードも、国内の反乱に敗れ、兄ともども捕虜になるという事態になり、皇帝になることはできませんでした。, ローマ王が2人とも皇帝になれなかった後、ボヘミア王オタカル2世やフランス王フィリップ3世など有力な君主を擁立する動きが出ます。しかし有力者が皇帝になることは諸侯や教皇にとって必ずしも好ましいことではありません。彼らとしては、簡単に操れる無力な皇帝であることが重要でした。, そこで目を付けられたのが、ほぼ無名に近いハプスブルク伯ルドルフ4世です。1273年、ルドルフ4世はルドルフ1世としてローマ王になります。, 大空位時代が終わりを迎え、後に神聖ローマ帝国の最盛期を築くハプスブルク家が歴史の表舞台に出た瞬間でした。, ルドルフ1世はローマ王に選出された時点で50歳を超えていました。かつてホーエンシュタウフェン朝が没落に向かうなかでも忠義を尽くして仕えた姿勢を評価されていたものの、他に特筆することのない凡庸な人物とみなされていました。, しかしそんな諸侯の予想に反して、1276年にはボヘミア王オタカル2世を倒し、ハプスブルク家をヨーロッパでも有数の家門に発展させていきます。, そのため、強大化を恐れた諸侯によってハプスブルク家が王位を世襲することは認められず、以後150年、ローマ王はハプスブルク家以外の家門から選出されることが通例になりました。これを「跳躍選挙」といいます。, 1356年には、ルクセンブルク家のカール4世が後に神聖ローマ帝国の最高法規と位置付けられる「金印勅書」を発布。選挙のルールを明確化したうえ、マインツ大司教、トリーア大司教、ケルン大司教、ライン宮中伯、ザクセン公、ブランデンブルク辺境伯、ボヘミア王の7人が「選帝侯」と定められ、数々の特権が与えられました。, ハプスブルク家は一時期歴史の表舞台から姿を消しますが、その間も自らの根拠地であるオーストリアの内政に力を入れ、徐々に勢力を増していきます。1438年にアルブレヒト2世が108年ぶりにローマ王になると、そこからは王位の世襲化にも成功。, さらに1508年にはマクシミリアン1世が教皇からの戴冠を受けないまま「皇帝」を名乗り、以降、神聖ローマ帝国皇帝位はほぼハプスブルク家によって独占されることになるのです。国号も「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」に変更しています。, マクシミリアン1世は、ハプスブルク家のお家芸でもある結婚政策で、オーストリアやドイツ、ハンガリー=ボヘミア、スペイン、ネーデルラント、ナポリ=シチリア、サルデーニャにまたがる広大な帝国を築きあげました。, 孫のカール5世の時代にはさらに世界各地に拡大し、「太陽の沈まない国」と形容される神聖ローマ帝国の最盛期を築くことになるのです。, 1806年、神聖ローマ帝国は滅亡します。直接的な要因となったのは、1805年にフランスとの間で勃発した「アウステルリッツの戦い」に敗れたことです。, 1806年、ナポレオンはライン川流域の諸侯を集めて「ライン同盟」を結成。バイエルンやヴュルテンベルクなどの有力諸侯を含むドイツ南西部16の諸邦が、神聖ローマ帝国から離脱しました。, これを受けて、ハプスブルク家のフランツ2世が神聖ローマ帝国の皇帝から退位。神聖ローマ帝国は約1000年の歴史に終止符を打つことになったのです。, しかし実際には、すでに1648年の時点で神聖ローマ帝国は終焉を迎えていたとする研究もあります。, ボヘミアのプロテスタントが反乱したことをきっかけに起こった「三十年戦争」で神聖ローマ帝国が敗北し、「ウェストファリア条約」が締結されました。この条約で帝国内の各領邦に主権が認められ、皇帝の権利が著しく制限されることになったのです。皇帝の有名無実化が進み、神聖ローマ帝国は事実上解体されました。, ハプスブルク家は、神聖ローマ帝国が滅亡した後も、オーストリア皇帝やハンガリー王として統治を続けます。一方でドイツはその手を離れ、1871年にはプロイセンによってドイツ諸邦が統一。ドイツ帝国が成立しました。, 神聖ローマ帝国について、18世紀にフランスで活躍した思想家のヴォルテールは「神聖でもなければ、ローマ的でもなく、そもそも帝国ですらない」と評価をし、17世紀のドイツの法学者プーフェンドルフは「妖怪に似ている」と語りました。, しかし、この不可思議な帝国は1000年にわたって実在し、その政治体制は現在のドイツ連邦の基礎として今なお、生き続けています。, 約1000年にわたってヨーロッパの中枢に在り続けた神聖ローマ帝国の、歴代皇帝の功績を簡潔にまとめた作品。, 年代を追って記述されているので、歴史の流れをつかみやすく、教会勢力や諸侯との抗争をくり広げながらもいかにして神聖ローマ帝国が存在していたのかを知ることができます。, 壮大なテーマですが、260ページと読みやすい文量なのもポイント。また、ところどころに家系図などが挿入されていて、同じような名前の人物が乱立していても混乱せずに読み進めることができるでしょう。ヨーロッパ史の幹ともいえる神聖ローマ帝国の概要を知れる一冊です。, フランク王国のカール1世、東フランク王国のオットー1世、そしてハプスブルク家のカール5世、彼ら神聖ローマ帝国の皇帝たちが抱いていた夢は「古代ローマ帝国」の復活だったといわれています。, かつて古代ローマ帝国と戦った歴史をもつゲルマン民族系の人々が、古代ローマ帝国の復活を目指すのは不思議なことです。本書では、ゲルマン系民族と神聖ローマ帝国の関係に焦点を当て、「そもそも神聖ローマ帝国とは何だったのか」という疑問を解き明かしていきます。, 神聖ローマ帝国の成立から滅亡までを振り返り、その歴史を再評価しようと試みる、読みごたえ十分の一冊です。, 中東屈指の金融都市ドバイを有するアラブ首長国連邦。UAEという略称で知られています。この記事では治安や政治、石油産業なども含めて、古代からの歴史をわかりやすく解説。おすすめの関連本も紹介するので、チェックしてみてください。, 近い将来、中国を抜いて世界一の人口大国になると目されているインド。一体どんな歴史を歩んできたのか、古代から植民地時代を経て、独立、近代化を果たすまでの流れをわかりやすく解説していきます。. 彼らは神聖ローマ帝国から離脱してナポレオンとライン同盟を結成します。 1806年8月6日、皇帝フランツ2世はウィーンで神聖ローマ帝国の終焉を宣言します。こうして、962年以来844年間続いた神聖ローマ帝国は滅亡しました。 訳文は瀬原訳、, イタリア王としてのルートヴィヒ「2世」であり、東フランクのルートヴィヒ2世とは別人。, ル・ジャンもまた、以下のように述べる。「人類学者たちによると、王権が現れるのは、親族集団に自分の価値を認めさせ、多様性を維持しながら一体性を保証し、繁栄や公共福祉を保証することのできる上級権威を必要とするほど社会が複雑になったときである。フランク族に関して言えば、王権の出現はローマ世界への編入の結果である, カロリング朝時代のフランク王国は、同時代人にとっては現代的な意味での「国家」として捉えられておらず、それ自体一つの「教会」(ecclesia)と認識していたとされる。この場合の「教会」とは、単なる聖堂や集会場所と言う意味での教会ではなく、キリスト教の教義における「, 伝統的に大公位はゲルマン古来の部族と関連付けてとらえられている。カール1世(大帝)によるバイエルン大公位廃位などのような圧力の後も、カロリング朝の分裂と瓦解の時期には再び歴史の担い手として表舞台に登場するものとされていた。, このようなブルンナーの説には多数の批判が寄せられているが、その基本的な論理はなお定説としての地位を維持しているとされる, 聖職者の戦闘禁止規則は必ずしも順守されておらず、前線で武装して戦闘に加わっていた司教の存在が知られている, 古典荘園制は、中世初期社会研究の一つの軸として扱われてきた。19世紀の古典学説では、カロリング期の所領明細帳に見られる領主直営地と農民保有地と言う二つの部分から構成され、領主直営地は農民保有地を持つ農民によって耕作されるというモデルを古典荘園制と名付け、封建的土地所有形態の始原的形態と位置付けた。このような古典荘園制がカロリング期に排他的に存在していたとする見解は20世紀前半以降根本的批判に晒され、古典荘園制をカロリング期の基本的な所領形態とする見方は下火となった。1960年代には実際にこのようなモデル化が可能な古典荘園制が典型的に展開されたのは、フランク王国の中枢部である, ただし、このような文書行政を伴う法律行為はフランク王国の全てで一様に実施されていたわけではない。旧ローマ帝国領に成立したゲルマン人の王国ではいずれも同様であるが、フランク王国は単一の部族集団ではなかった。フランク王国はフランク人の他に、ガロ・ローマ人やゲルマン人の諸部族(アレマン人やバイエルン人、テューリンゲン人、ブルグント人、ランゴバルド人等)が含まれる多民族国家であった。これらのローマ系の人々やゲルマン人諸部族は、それぞれの言語や法、習俗、慣習を維持し続けた, トゥールのグレゴリウスは当時の「フランク人」の認識についても興味深い著述を残している。彼はアクィタニアのガロ・ローマ人の名門家系の出身であり、その一族からは, ただし、北ガリアでは既に4世紀にはこうした学校は消滅していた。南ガリアでは7世紀半ばまで存続したが、その後完全に消滅した。それ以降は、主として司教職を担う名門家系による「家伝」によって古典が継承されたが、「家」によって伝えられるだけであった古典の知識は世代を経るごとに貧弱化していったと考えられている, こうした聖人伝は対象の聖人の記念日に朗誦することを前提として作られており、ラテン語による朗誦を当時の民衆が未だ理解できていたことを示している, カロリング・ルネサンスにはヨーロッパ各地から集まった外国人が多大な貢献をしていた。カール1世のラテン語の師であったピサのピエトロや、パウルス・ディアコヌスのような, 合字(連綴文字)は2文字を合成してまるで1つの文字であるかのように綴るもので、例えば現代でも使用される&はラテン語etの合字を起源としている, http://kiyou.lib.agu.ac.jp/pdf/kiyou_02F/02__27F/02__27_132.pdf, 橋本龍幸「フランク史書 Liber Historiae Francorum (訳注), https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=フランク王国&oldid=78149155, 内膳役(dapifer, infertor) 宮廷全体を取り仕切り、食事の提供を担当していた。元来は最高位の官職であった。, 献酌役(pincerna, princeps pincernarum) 飲み物の準備を担当していた。, 納戸役(comerarius, cubicularius) 王の居室と衣服を管理するとともに、王宮の収支と財宝を管理した。, 厩役(marescalcus) 王の厩舎を管理し、宮廷の移動の際には宿営の手配もした。「厩伯(comes stabuli)」という称号でも呼ばれ、カロリング朝時代にはしばしば軍司令官も担当した。, 宮中伯(comes palatii) 裁判に携わる職であり、王の不在時には宮廷裁判を主宰した。通常複数名がこの職に任じられていた。, 王領地管理人(Domestikus) ローマ時代の制度を引き継いだものであると推定され、名前の通り王領地管理の最高責任者であった。カロリング朝時代までには置かれなくなった。, 俗人書記 (Referendare) 同じくローマ時代の制度を引き継いだものと推定され、王の書記局を取り仕切り、王の印璽を管理し、証書への署名を担当した。俗人書記はカロリング朝時代には置かれなくなり、宮廷の聖職者がその仕事を担当するようになった。, 第一に王の側近として「従士(trustis)」の中から選抜した武装集団「プエリ(pueri)」「武者(armati)」が組織された。彼らは純然たるフランク王の手勢であり、もっとも信頼のおける精鋭であった, 第二にフランク系、およびガロ・ローマ系有力者の従士団があった。彼らは財産や所領を保証してもらう見返りとして忠誠と軍事奉仕を誓った人々であり、その支持は王国の安定上きわめて重要であった, 第三にもともとはローマの国境守備兵力として居住を認められたゲルマン系諸部族やその他の異民族からなるラエティの兵力があった。彼らはローマ時代のキウィタスや城塞(カストラ)、皇帝領に駐屯しており、メロヴィング朝は新たな征服地にもローマ時代のラエティと同じような軍事植民を継続した。それらの地域は「. ローマ教皇に認められた帝国であるのに首都がローマでもなく、ましてやローマは帝国の領内にもありません。, 滑稽な形で存在することになってしまった神聖ローマ帝国。 1438年 より、 神聖ローマ皇帝位はハプスブルク家の世襲 が始まり、ウィーンが神聖ローマ帝国の首都となる。 また、結婚により マクシミリアン1世 が当時最大の経済大国ネーデルラント(今のオランダ)を世襲すると巨大な経済力を手にした。 ふと中学生の歴史教科書(東京書籍)をパラパラめくっていると、とても荘厳な名前を持つ国が突如現れます。 この帝国は後に「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」と呼ばれますが、成立当初は定まった国名はありませんでした。また、オットー1世をはじめとするザクセン家の皇帝たちはローマ帝国にならって「皇帝アウグストゥス」の称号を使いました。 帝国内に存在する、諸侯(しょこう)と呼ばれる、権力ある貴族達が争い皇帝に就任したり、時には選挙で皇帝が選出されました。, これだけでも謎めいた国家なのですが、ローマ帝国を名乗るわりには首都がローマでもない。 互いに、自らがキリスト教の頂点に立つ教会であると自負していたからです。, 教会の権力は強固なものでしたが、権威を保つには後ろ盾となる強力な国家に支えられる必要があります。, 東のコンスタンティノープル教会はビザンツ帝国、西のローマ・カトリック教会は西ローマ帝国に支えられていたのです。, しかし、西ローマ帝国の消滅により、ローマ・カトリック教会は後ろ盾を失ってしまうことになります。, ローマ・カトリック教会は、この勢いのあるフランク王国を、自らの後ろ盾にしようと画策しました。, こうして、フランク王国はローマ・カトリック教会を守護する国家として、ローマ教皇から認められることになります。, それは由緒ある西ローマ帝国の皇帝として認められた瞬間でした。 オットー1世は神聖ローマ帝国の初代皇帝となります。, 実際この時点では、神聖ローマ帝国は、単にローマ帝国と呼ばれていましたが、便宜的に記事中は神聖ローマ帝国で統一します。 ボヘミアにゴシック建築が広がったのは13世紀前半である。それまでのボヘミアではロマネスク建築が主だったが、すでにフランスではゴシック盛期を迎えていた[44]。1230年代、シトー会による最初のゴシック建築が現れたが、これはまだロマネスク建築からの過渡期にあるものだった。純粋なロマネスク建築は1240年代にヴィネツ、ポトヴォロフ、ティスミツェ、コンドラツなどに現れたのを最後に生まれなくなった。過渡期のゴシック建築はまだ控えめで、柱頭などの装飾には葉やベリーのモチーフが好まれた[43]。シトー会はボヘミアにおけるゴシック前期を牽引した[44]。, 13世紀中ごろから終わりにかけてトシェビーチに建てられた聖プロコピウスのバシリカは、この時代のヨーロッパにおいて最も異様な建築とされている。ベネディクト会の聖堂として建てられたこの建物は、ロマネスク建築とゴシック建築が混在する特異なつくりになっている[44]。ただし「過渡期」建築とは一線を画しており、両様式の要素を成熟させ融合したことで、純粋なロマネスク建築と純粋なゴシック建築が両立していて[43]、現在では世界遺産にも登録されている[45]。1260年代以降、ボヘミアの建築に対するシトー会の影響力が弱まり、代わりにフランスの高度なゴシック建築の影響が表れるようになった[46]。, ボヘミアのゴシック盛期はヴァーツラフ2世治下の1290年代から始まり、垂直性や光が強調されるようになった。ルクセンブルク朝の祖であるヤン・ルケンブルスキーはボヘミア王国を離れることが多く、あまり建築に力を入れなかった[47]ため、プラハ司教のヤン4世が南フランスの建築家を招いて国内の建築を振興した[48]。, カール4世の時代、ボヘミアのゴシック建築は最盛期を迎える。彼は少年期を過ごしたフランスの影響を受けた芸術の支援者であり、さらに彼が皇帝に即位したことでプラハは神聖ローマ帝国の首都となりさらに発展した。彼と息子のヴァーツラフ4世の時代、短期間ながらボヘミアの文化はヨーロッパの頂点に上り詰めた[49]。ボヘミアゴシック盛期最高の建築物は、1348年から1357年に建設されたカルシュテイン城である. ボヘミア王国(ボヘミアおうこく)、ベーメン王国、またはチェコ王国[2][3] (チェコ語: České království; ドイツ語: Königreich Böhmen; ラテン語: Regnum Bohemiae, Regnum Czechorum) は、中世から近世にかけて中央ヨーロッパに存在し、現代のチェコ共和国の前身となった王国。神聖ローマ帝国の領邦の1つであり、ボヘミア王は選帝侯の一人だった。ボヘミア王は歴史的地域としてのボヘミアを中心としてモラヴィア、シレジア、ルーサティアの全域と、ザクセン、ブランデンブルク、バイエルンの一部を含むボヘミア王冠領を支配した。, 前身はボヘミア公国で、12世紀にプシェミスル朝のもとで王国に昇格した。その後ボヘミア王位はルクセンブルク家、ヤギェウォ朝と移り変わり、最終的にハプスブルク家(後のハプスブルク=ロートリンゲン家)のものとなった。王国の首都プラハは、14世紀後半、16世紀末、17世紀初頭に神聖ローマ皇帝の在所となった。, 1806年に神聖ローマ帝国が解体されたのち、ボヘミア王領はハプスブルク家のオーストリア帝国の領土となり、1867年にオーストリア=ハンガリー帝国に移行したのちもオーストリアの一部とされた。ただし名目上、公式にはボヘミア王国は単一の王国として1918年まで存続した。その間もプラハは帝国の主要都市の1つであり続けた。国内では主にチェコ語(ボヘミア語)が話され、貴族の議会でもチェコ語が用いられていたが、三十年戦争中の1627年の反乱が鎮圧されたのちに禁止された。それ以降はドイツ語がチェコ語と対等に使われるようになり、特に議会では19世紀の「チェコ民族復活」までドイツ語が用いられた。また13世紀の東方植民の際にドイツ人が多数入植した影響で、ボヘミア外縁部のズデーテン地方の都市ではドイツ語が主に使用されていた。王国議会では、国王や時代によって、チェコ語、ラテン語、ドイツ語など使われる言語が変化した。, 第一次世界大戦で中央同盟国が敗北したことで、ボヘミア王国はオーストリア=ハンガリー帝国とともに解体された。その旧領は、新たに独立したチェコスロヴァキア第一共和国の中核となった。, 9世紀に始まったボヘミア公国の歴史の中で、11世紀後半にヴラチスラフ2世[4]、12世紀にヴラジスラフ2世[5]がボヘミア王を名乗ったが、いずれも1代限りに終わった。連続的なボヘミア王国が成立したのは1198年のことで、プシェミスル朝のオタカル1世が、ローマ王位をめぐるフィリップとオットー4世の争いに際して前者を支援する見返りに王位を認められた。フィリップは争いに敗れオットー4世が単独の皇帝となったが、オタカル1世はオットー4世や教皇インノケンティウス3世にもボヘミア王号を認めさせた。1212年に皇帝フリードリヒ2世が出したシチリア金印勅書において、ボヘミア公国は正式に王国へ昇格した[5]。, ボヘミア王は、帝国議会への出席を除き、将来にわたってあらゆる帝国諸侯としての義務を免れた。皇帝が持っていたボヘミア君主承認権やプラハ司教任命権は放棄された。オタカル1世の息子ヴァーツラフ1世はボヘミア王位を継承し、その地位を盤石なものとした。, ヴァーツラフ1世の妹アネシュカ・チェスカーは、当時の女性としては並外れて果敢かつ行動的な人物だった。皇帝フリードリヒ2世との縁談を断り、修道院に入って精神生活に生涯をささげたのである。彼女が教皇インノケンティウス4世の後押しを受けて1233年に創設した紅星騎士団は、ボヘミア王国最初の騎士修道会となった。なお外来の騎士修道会としては、ボヘミアではすでに聖ヨハネ騎士団(1160年ごろ以降)、聖ラザロ騎士団(12世紀後半以降)、ドイツ騎士団(1200年ごろ - 1421年)、テンプル騎士団(1232年 - 1312年)の4つが活動していた[6]。, 13世紀、プシェミスル朝は中央ヨーロッパ最強の王朝の1つとなった[7]。皇帝フリードリヒ2世の地中海偏重政策と彼の死後の大空位時代(1254年 - 1273年)のために、中央ヨーロッパにおける皇帝権力は著しく弱まった。また東方からはモンゴル帝国がヨーロッパに侵攻し、ボヘミアの東方のライバルであるポーランドとハンガリーが大いに力を削がれていた。, オタカル2世は帝国の大空位時代とほぼ被る治世(1253年 - 1278年)の間にボヘミア王国史上最大の版図を実現した。皇太子時代の1252年にバーベンベルク家最後の男系女子だったマルガレーテと結婚してオーストリア公となり[5]、オーバーエスターライヒ、ニーダーエスターライヒ、シュタイアーマルクの一部を獲得した。その後1260年のクレッセンブルンの戦いでハンガリー王ベーラ4世を破り、シュタイアーマルクの残部、ケルンテンの大部分、カルニオラの一部を征服し[8]、その領土はアドリア海に達した[9]。彼は「鉄と金の王」とのあだ名で呼ばれた[5]。鉄は彼の征服活動、金はその富を意味する[5]。またドイツ騎士団を支援して北方のプロイセンにも遠征して1256年に異教徒のプルーセン人を破り、クラーロヴェツ(チェコ語: Královec)という都市を建設した[5]。後にケーニヒスベルクのドイツ語名で知られるようになったその名は「王の砦」を意味するが、これはドイツ騎士団がオタカル2世に敬意を払って付けたものである[10][11]。, しかし1273年にローマ王選挙でオタカル2世を破り選出されたハプスブルク家のルドルフ1世は皇帝権回復を志し、オタカル2世の勢力を削り始めた。国内貴族の反乱にも苦しんでいたオタカル2世は、1276年までにオーストリアを始めとするドイツにおける領土をすべて失い、1278年のマルヒフェルトの戦いでルドルフ1世との決戦に挑んだが敗死した[5][12][13][12]。, 跡を継いだヴァーツラフ2世の元には従来のボヘミア王国の版図しか残っていなかった。そのボヘミアも王が幼少であることから、その保護者になるという名目で周辺諸国の侵略の的となり、一時期王国とヴァーツラフ2世は5年にわたりブランデンブルク=シュテンダール辺境伯オットー4世の支配下に置かれたこともあった[5]。が、彼は1300年にポーランド王位を獲得[5]、1301年に息子ヴァーツラフ3世をハンガリー王に即位させた。1305年にボヘミア王位・ポーランド王位をも継承したヴァーツラフ3世の元で、プシェミスル朝の支配はハンガリーからバルト海にまで及んだ。しかし翌1306年、ポーランド王位を守るためポーランド遠征を企図していたヴァーツラフ3世がオロモウツで暗殺されてプシェミスル朝は断絶[5]400年に及んだプシェミスル朝のボヘミア統治は幕を下ろした[5]。ポーランドではピャスト朝のヴワディスワフ1世が諸侯の再統合を進めて1320年にポーランド王位を復活させ、ハンガリーではアンジュー朝が成立した。その一方でボヘミア王国は、国外の諸家が王位を争う闘争の舞台となった。, 13世紀はドイツからの東方植民が活発に行われた時代であるが、プシェミスル朝の歴代君主はこの活動を大いに支援した。ボヘミアの外縁部の都市や鉱山地域には多数のドイツ人が入植し、一部はボヘミア内部にも植民都市を建設した。ドイツ人入植地として有名な都市は、ストジーブロ、クトナー・ホラ、ニェメツキー・ブロト(現ハヴリーチクーフ・ブロト)、イフラヴァが挙げられる。ドイツ人はイウス・テウトニクム(ドイツ人の法、ラテン語: ius teutonicum )と称する独自の法体系を持ち込み、これが後にボヘミアとモラヴィアにおける商法の基礎となった。チェコ人貴族とドイツ人の婚姻も一般的に行われるようになった。, .mw-parser-output .tmulti .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .tmulti .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .tmulti .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .tmulti .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .tmulti .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .tmulti .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .tmulti .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow>.thumbcaption{text-align:center}}14世紀、特にカレル1世の時代(1342年 - 1378年)は、チェコの歴史上の黄金時代と呼ばれる。1306年にプシェミスル朝が断絶したことで、ルドルフ1世(オーストリア公ルドルフ3世)とインジフ・コルタンスキー(ケルンテン公ハインリヒ6世)がボヘミア王位をめぐり争ったが、最終的に1310年にルクセンブルク家のヤン・ルケンブルスキーがヴァーツラフ3世の妹エリシュカ・プシェミスロヴナと結婚し、ボヘミア王となった[14]。彼は神聖ローマ皇帝ハインリヒ7世の息子であった。ヤンの息子カレル1世は1346年にボヘミア王位を継ぎ、ルクセンブルク家2代目の王となった。彼は幼少期にフランス宮廷で養育されて国際人としての人格を育て、またボヘミアを不在にしがちなうえ1340年には失明した父に代わり、1333年以降13年間ボヘミアを実質的に統治していた人物だった[14]。, カレル1世はボヘミア王国の地位と威信の向上に努めた。ボヘミアのマインツ大司教の管轄下にあったプラハ司教を1344年に大司教に昇格させ、ボヘミア王に戴冠する権利を与えた。またボヘミア、モラヴィア、シレジアの貴族の力を押さえ、領土経営の合理化を進めた。1348年にはモラヴィア、シレジア、ルーサティアを含んだボヘミア王冠領を成立させ、王領の不可分性を規定した[15]。, 1355年、カレル1世はカール4世として神聖ローマ皇帝に即位した。翌1356年に金印勅書を発し、皇帝選出の手続きを整備した。この後、1473年にカレル1世はバイエルン公オットー5世よりブランデンブルク辺境伯領を購入し[16][17]、皇帝選挙の際にルクセンブルク家で2票を確保できる体制を作った。カレル1世は、ボヘミア王国の首都プラハを帝国の首都に定めた。, 彼の元で、プラハでは旧市街の南東に新市街を建設する一大事業が勧められた。またロマネスク様式の宮殿だったプラハ城もゴシック様式に改築され、城塞としての機能が強化されたうえで皇帝の在所に定められた。カレル1世は1348年にプラハ・カレル大学を創設し[15]、プラハを学問の中心地としようと試みた。大学内はチェコ、ポーランド、ザクセン、バイエルンという4つの「ネーション(英語版)」に分けられ、それぞれが投票権を持つ体制が作られた。しかしながら、時がたつにつれてプラハ・カレル大学はチェコ人中心主義の中核になっていった。, 1378年にカレル1世が死去すると、王位は息子のヴァーツラフ4世(ヴェンツェル)に移った。既に彼は1376年にローマ王に選出されていた。しかし皇帝としての戴冠を果たせぬまま失政を重ね、1400年にはローマ王を廃位された。何とかボヘミア王位は保ったものの、彼の時代のボヘミアは不況に陥り、盗賊や私闘が横行したうえ、黒死病の流行にも見舞われた[18]。弟のジクムント(ジギスムント)は1410年にローマ王に選出され[19]、1433年にローマで皇帝に即位した[20]。彼の代で、ルクセンブルク家は断絶した。, 1402年から1485年にかけてのフス派の活動は、宗教改革運動に留まらないチェコ民族運動の走りでもあった。ボヘミア宗教改革と呼ばれる一連の宗教改革運動は、教皇の権威に挑戦し、ボヘミア地域の教会の独立を試みるものだった。フス派と帝国・教皇の間でフス戦争が勃発、フス派は4度にわたってフス派十字軍を撃退し、後のプロテスタントの走りとみなされている。十字軍兵士の多くがドイツ人であったことから、フス派はチェコのナショナリズムの始まりとみなされることがある。ただし、十字軍には多くのハンガリー人やチェコ人カトリック教徒も参加していた。現代のチェコ史学上では、フス派は反帝国、反ドイツ運動の端緒という地位を与えられ、さらには長期的なチェコ・ドイツ民族対立の一部とみなされることすらある。, フス派はヴァーツラフ4世の治世下で勃興した。この頃カトリック教会は大シスマ状態にあって教皇の権威が著しく減退しており、帝国でも皇帝の失政のために秩序が失われていた。1403年にプラハ・カレル大学の教授となったヤン・フスは、イングランドのジョン・ウィクリフの反教皇・反ヒエラルキー主義(ロラード派)に共鳴し、教会改革を求める説教師として活躍するようになった。フスは富、汚職、カトリック教会のヒエラルキーを否定し、ウィクリフの教義に従って聖職者に清貧を求めるとともに、聖餐において平信徒もパンとワイン両方を受ける二種聖餐を提唱した[21]。またフスは聖書をチェコ語に翻訳し、チェコ語はギリシア語、英語に次いで、現代も一般に話されている言語の中では3番目に聖書の全文翻訳がなされた言語となった[22]。, ドイツ人の神学教授たちはフスにウィクリフ批判を強要したが、フスは大学内のチェコ人派閥の後押しを受けてこれを拒絶した。大学の方針を定める評議会はドイツ人3票に対してチェコ人は1票しかもっていなかったためチェコ人派閥は敗れ[要出典]、プラハ・カレル大学は正統カトリックを軸とし続けることになった。その後数年間にわたり、地元民であるチェコ人は自分たちの権利を拡大するよう大学憲章の改訂を要求した。ヴァーツラフ4世がこの論争に対し曖昧な態度をとったこともあり、対立は激化する一方だった。当初彼はドイツ人を要職につけようとしてチェコ人貴族の反感を買い、逆にフスの後援者を増やしてしまった。ドイツ人派閥は、プラハ大司教ズビニェク・ザイーツや、国内のドイツ人聖職者の支持を得ていた。しかし政治的に追い詰められたヴァーツラフ4世は、変心してドイツ派からチェコ派に鞍替えし、今度は宗教改革派と手を組んだ。1409年1月18日、ヴァーツラフ4世はクトナー・ホラ勅令を発し[23]、大学内のチェコ人に3票の投票権を与え、他の国民は1票と改めた。これによりフスは大学の主導権を握り、対してドイツ人の教授や生徒数千人がプラハ・カレル大学を離れ[18]、彼らの多くはマイセン辺境伯フリードリヒ4世を頼ってライプツィヒ大学を創立した。, 大学内の闘争に勝利したフスだったが、カトリック教会の贖宥状販売を批判したことで、売り上げの一部を受け取っていた王の支持を失った[18]。教皇庁はプラハの聖務停止を宣告して圧力をかけ[18]、結果として1412年、フスと支持者たちは、大学の職を解かれプラハからも追放された。その後約2年の間、フスは巡回説教師としてボヘミア中をまわり、自身の改革教義を広めていった。1414年、フスはコンスタンツ公会議に召還され、到着後すぐに投獄された。彼は自説を曲げないまま異端宣告を受け、生命を保証されていたにもかかわらず[24]1415年7月6日に火刑に処された[18]。現在、この日はチェコ共和国の祝日となっている[18]。, フスの処刑により、数十年に及ぶフス戦争が勃発した。1419年に説教師ヤン・ジェリフスキー率いるフス派市民が第一次プラハ窓外投擲事件を起こし、ドイツ人市長と評議員を殺害した[18]。その報を受けたヴァーツラフ4世は卒倒、半月後に死んでしまった。その後を継いでボヘミア王に即位した弟のジクムント(ハンガリー王ジグモンド、後に神聖ローマ皇帝ジギスムント)は、コンスタンツ公会議の際にハンガリー王としてフスの処刑を主導した人物だった。しかしジクムントはハンガリー人とドイツ人の軍を率いていながら、ボヘミア王国での支配確立に失敗した。プラハでは暴動が起き、南部では傭兵隊長ヤン・ジシュカが蜂起した。宗教闘争は瞬く間にボヘミア全土に広まり、特にドイツ人が支配していた諸都市では激しい抗争が起きた。フス派のチェコ人とカトリックのドイツ人は互いに虐殺しあい、敗れたドイツ人たちはボヘミア以外の神聖ローマ帝国領に逃れた。ジクムントはボヘミアやドイツ、ハンガリーのカトリック教徒を率いて何度もフス派十字軍を組織したが、ヤン・ジシュカは農民や傭兵を主体とする少数の軍勢にウォーワゴンで騎士の突撃を止め、銃火器で殺害する戦術を導入し、何度も皇帝や有力諸侯の軍を撃破した[18]。, この頃既に、フス派内では次々と分派が誕生していた。ウトラキスト(両形式主義者)を名乗り、カトリック教会との妥協も視野に入れるボヘミア貴族ら穏健派がある一方で、南ボヘミアの要害にターボル市を建設してターボル派と名乗った過激派は、教会を完全に否定し、聖書を唯一の宗教権威とした[18]。ヤン・ジシュカはターボル派の軍事指導者だった。フス戦争では、同じような構図の流れが繰り返された。まずジクムントらが十字軍をボヘミアに侵攻させると、フス派は穏健派と過激派が手を結び、共同して十字軍を撃退する。しかしひとたび脅威が去れば、フス派軍はカトリック教徒の地域に繰り出して略奪と虐殺を繰り広げた。多くの歴史家たちは、フス派を狂信者として描いている。一方で、彼らはフス派の権利や存在そのものを否定する王や教皇と戦い、自らの土地を死守するナショナリストの萌芽ともいえる顔も持っていた。ジシュカは途中でオレープ派を結成してターボル派と距離をとりつつ、カトリック軍と戦いながら城塞や修道院、村を襲い、カトリックの聖職者を追い出して教会領を接収するとともに、カトリック教徒のフス派への改宗を進めていった。しかし彼は1424年に黒死病に倒れ、ターボル派の大プロコプと小プロコプが跡を継ぎ、積極的にドイツに侵攻して勢力を拡大した[18]。, 一方で1433年、ウトラキストはバーゼル公会議に代表団を派遣し、カトリック教会との和解を図った[18]。1434年、カトリック軍とウトラキスト軍は共同して過激派を攻撃し、リパニの戦いで大小プロコプを討ち取って過激派のフス派軍を壊滅させた[18]。1436年バーゼルの誓約が締結され、フス派説教の自由、二種聖餐、聖職者の不正排除、各階級による裁判と処罰といったプラハ四か条[25]で示されたフス派の基本事項がすべてカトリック教会に認められた[18]。しかし教皇エウゲニウス4世がバーゼルの誓約の承認を拒否したため、ボヘミアのカトリックとウトラキストの間には溝が残った。ウトラキストがボヘミアの政権を握ったことで、都市からはドイツ人の裕福な市民が姿を消した[18]。聖職者はその信条にかかわらず財産を貴族や都市に没収され、影響力が弱まった[18]。, ジクムントと戦う過程で、ターボル派はボヘミア王国の領域を飛び出し、モラヴィア、シレジア、ルーサティア、さらには現在のスロバキアにあたる上ハンガリーにも進出した[18]。リパニの戦いの後、カトリック軍に追われたチェコ人宗教難民が大勢ここに流れ込み、1438年から1453年にかけてフス派の残党であるチェコ人貴族ヤン・イスクラが南スロバキアからゾーヨン(現ズヴォレン)、カッサ(現コシツェ)に至る地域を支配した。フス派の軍事的影響とチェコ語聖書の普及は、後のスロバキアとチェコの強い繋がりの端緒となった。また一時期ポーランド王ヴワディスワフ2世の援助を受けていた関係でポーランド軍にもフス派が参加しており、彼らはバルト海にまで到達した[18]。, 1437年にジクムントが死去すると、ボヘミアの諸階級はその遺志に沿ってハプスブルク家のアルブレヒト(オーストリア公アルブレヒト5世、神聖ローマ皇帝アルブレヒト2世)をボヘミア王とした。その死後は遺児ラジスラフ・ポフロベク(ラディスラウス・ポストゥムス)が跡を継いだが、幼少だったためウトラキストの流れをくむ改革派貴族が摂政となった。しかし貴族の中にはカトリックに留まり教皇に忠誠を誓う者も残っており、内紛が絶えなかった。, ラジスラフ・ポフロベクはオーストリアで後見人フリードリヒ(後のオーストリア大公フリードリヒ5世、皇帝フリードリヒ3世)に幽閉されており、ボヘミアでは1452年以降、穏健フス派の指導者イジー・ス・ポジェブラトが摂政として政権を握った[18]。彼は同じウトラキストのヤン・ロキツァナをプラハ大司教として、さらに過激派のターボル派の残党をチェコ改革教会に取り込むことに成功した。カトリック派はプラハを追い出された。1457年にラジスラフ・ポフロベクが白血病で死去すると、ハンガリー議会はマーチャーシュ1世(ボヘミア名マティアス1世・コルヴィン)をハンガリー王に[26]、ボヘミア諸階級はイジーをボヘミア王に選出した[27][18]。彼は大貴族ではあったが王家の血筋ではなく、この国王選出は教皇や他の王侯に承認されなかった。, 異端の烙印を押されてヨーロッパ・カトリック世界の中で孤立していたイジーは、ヨーロッパのキリスト教諸国が巨大な連合体を形成し、抗争を止めるとともに団結してオスマン帝国に対抗するという壮大な構想を立てた[18]。その中では各邦が1票を握り、フランスが主導的な立場につくとされており、教皇には特別な地位を与えなかった。[要出典]イジーは1464年から1467年にかけて各国宮廷をめぐり自らの構想を訴えたが、失敗に終わった[18]。, 1465年、カトリックのボヘミア貴族はゼレナー・ホラ同盟を結び、イジーへの抵抗を表した[18]。翌年、教皇パウルス2世はイジーを破門し、ボヘミア臣民のイジーへの服従義務を解いた。これを受けて1468年にボヘミア戦争が勃発し、ハンガリー王マーチャーシュ1世[18]や神聖ローマ皇帝となっていたオーストリア大公フリードリヒ3世の侵攻を受けた。イジーはマーチャーシュ1世にモラヴィアの大部分を奪われたが、周囲の反対を押し切り1470年に和平を結び、ヤギェウォ朝の王子を後継に定めて翌1471年に没した[18]。, フス派王イジーの死を受けて、ボヘミア諸階級はヤギェウォ朝(ボヘミアではヤゲロンキ朝)のポーランド王子ヴラジスラフ・ヤゲロンスキーをボヘミア王に選出した[28]。一方マティアス1世・コルヴィンもボヘミア王位の請求を取り下げず侵攻を続けていた。1479年に両者はオロモウツの和約を結び、ヴラジスラフはシレジア、モラヴィア、ラウジッツとボヘミア王位をマティアス1世に譲渡、わずかにボヘミアを残すのみとなった。ヴラジスラフは国内のカトリックとフス派の対立にも悩まされたが、1485年にカトリック派がバーゼルの誓約を受け入れ、両者の和解が成った。1490年にマティアス1世が嗣子なくして死去したため、ヴラジスラフは彼の跡を継ぐことで旧領を回復、さらにハンガリー王位をも獲得した[29][出典無効][30]。ヴラジスラフがブダに移ってハンガリー統治に専念したため[31]、ボヘミアではほとんど各地の貴族が自治を行う状況になり、1500年にボヘミア貴族が王権を制限する法を制定するとヴラジスラフも1502年に承認した[32]。ハンガリーと同君連合を結んだボヘミアは神聖ローマ帝国から浮いた存在になり、1500年に帝国クライスが成立した際もボヘミア王冠領は除外された。, 1515年、ヴラジスラフは神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世や弟のポーランド王ジグムント1世と会談、ウィーン二重結婚を取り決めた。1516年、ヴラジスラフの息子ルドヴィーク幼王[33]がボヘミア王・ハンガリー王を継いだが、彼は1526年にモハーチの戦いでオスマン帝国と争い敗死した。ここにヤゲロンキ朝が断絶したため、二重結婚でルドヴィークと強い縁戚関係にあったオーストリア大公フェルディナント1世がボヘミア王位・ハンガリー王位を請求した。彼はボヘミア王に選出され(フェルディナンド1世)、上ハンガリー(現在のスロバキアと大まかに重なる地域)を含むハンガリー北西部を支配下に入れた。これ以降、4世紀にわたってハプスブルク家(ハプスブルコヴェ朝)がボヘミアとスロバキアを支配することになった。1583年、ルドルフ2世はウィーンからプラハに遷都し、プラハは芸術の都として再び繁栄期に入った。, 17世紀になると、ボヘミアはプロテスタントの拠点としてハプスブルク皇帝への抵抗の兆しを見せるようになる。1618年にプラハ市民が第二次プラハ窓外投擲事件を起こし、ヨーロッパ中を巻き込む三十年戦争が勃発した。ただし、ボヘミア諸侯は1620年の白山の戦いで皇帝軍に敗れて早期に鎮圧され、ボヘミアの自治要求運動は終わりを迎えた。1648年のプラハの戦いではスウェーデンがプラハを包囲、略奪し[34]、終戦後は神聖ローマ皇帝もウィーンへ再遷都してしまった。, 1740年、フリードリヒ2世率いるプロイセンがシュレージエン戦争でボヘミア北西部のシュレージエンを占領し、女王マリエ・テレジエは1742年に南部を除くシュレージエンの大部分の割譲を余儀なくされた。1756年、マリエ・テレジエはフランスやロシアと共にプロイセンに対する包囲網を結成して七年戦争を起こし、シュレージエン奪回を試みた。対するプロイセン軍はザクセンを占領した後1757年にボヘミアに侵攻、プラハの戦いでハプスブルク帝国軍を破り、一時プラハを占領した。プラハ市街の4分の1以上が破壊され、聖ヴィート大聖堂も大きな被害を受けた。コリンの戦いではハプスブルク帝国が勝利し、プロイセン軍をプラハおよびボヘミアから追い出したものの、シュレージエンの大部分は回復できなかった。, 1806年にナポレオン戦争により、神聖ローマ帝国が完全に解体されると、ボヘミア王国はオーストリア帝国に吸収され、ボヘミア王号はオーストリア皇帝の付加称号となった。1867年のアウスグライヒでオーストリア=ハンガリー帝国への改編がなされた際には、ボヘミア、モラヴィア、オーストリア領シュレージエンはオーストリア帝冠領(ツィスライタニエン)の一部となった。名目的にはボヘミア王国は1918年のオーストリア帝国崩壊まで存続し、その後チェコスロバキア共和国に改編された。, 現在のチェコ共和国はボヘミア、モラヴィア、チェコ領スレスコ(シレジア)といった地域で形成されており、現代でもボヘミア王国をシンボルとしている。共和国の国章には2尾の獅子があしらわれており、ボヘミア王国の赤白二色旗はチェコの国旗やプラハ城(現在は大統領府)にも見ることができる。, もともと公国だったボヘミア(Čechy)およびクラツコ伯領(Hrabství kladské)がボヘミア王国の中心である。イーガーラント(Chebsko)は1322年にボヘミア王ヤン・ルケンブルスキーが皇帝ルートヴィヒ4世を支援する見返りとして正式に獲得した。1348年、ローマ王を兼ねたカレル1世(カール4世)によって、以下の領邦を含むボヘミア王冠(Koruna česká)領が成立した。, カレル1世以前の13世紀、オタカル2世が以下の領邦をボヘミア王国に統合したが、その晩年にすべてハプスブルク家のルドルフ1世に奪われている。, ボヘミアは、ヨーロッパの中でも最初に工業化を果たした地域だった。12世紀初頭には、エルツ山地でスズや銀の採掘が始まっていた。, 1298年、クトナー・ホラ近郊にあったシトー会の修道院領内で銀が発見された[5][37][38]。ヴァーツラフ2世はこの銀山を国王の管理下に置き、1300年に王立造幣局を設置し、イタリア人技師の指導の下でプラハ・グロシュ銀貨を発行した[5][39]。また同年、ヴァーツラフ2世は鉱山法(イウス・レガーレ・モンタノールム)を制定した[23]。これは銀山管理の上での技術的問題や運営上の問題に特化した法律で[40]、ヨーロッパ最古の鉱山法の1つである[41]。クトナー・ホラはヨーロッパにおいては特に豊かな銀山の1つとなり、1300年から1340年の間には毎年20トンの銀が採掘された。この銀は王国の重要な財源となり[37]、クトナー・ホラには鉱夫と技術者以外に利潤を求める商人や職人も集まり、13世紀当時のクトナー・ホラで採掘された銀は、ヨーロッパで産出された銀のうちおよそ3分の1を占めていた[42]。, ボヘミア文化の発展は全体的に西欧に後れを取っていたが、13世紀に入ってボヘミア王国が国家として安定すると、ボヘミアの政治的・経済的な隆盛が芸術にも影響し始めた。この時代、数多くの修道院や都市、村が成立し、人が住んでいなかった地域への入植が進んだ。貴族が騎士文化を受容すると、ボヘミアにドイツのミンネザングや馬上槍試合、紋章や石造りの城塞といった新たな文化が流入した。またイフラヴァやストジーブロ、クトナー・ホラで銀山が発見されたことも文化の振興を後押しした[43]。.