(朝鮮戦争 出典:Wikipedia) 朝鮮戦争は、1948年に成立した国家である大韓民国(韓国)と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の間で生じた戦争のことです。 この戦争の結果、朝鮮半島は北部の朝鮮民主主義人民共和国と南部の大韓民国に分断され、冷戦における前線のひとつとなりました。 ちなみに、現在は終戦ではなく休戦であるため、名目上は現在も一応戦争中です。 日中戦争(支那事変)中の1938年(昭和13年)2月23日に当時は日本領外地だった台湾の台北松山基地にソ連空軍志願隊と中華民国空軍が共同で空襲を行い、民間人に若干の被害。. 簡単ながら、日本が降伏に至るまでの経緯をなぞってみましょう。 1944年6月マリアナ沖海戦で敗北した日本は、同年7月にサイパンを失陥します。これにより、日本本土は米爆撃機B29の行動圏内に入りました。 1944年11月からは本土空襲が始まり、日本の戦争経済は急速に崩壊していきます。 (この時点で日本に勝ち目は無くなりました。ちなみに7月6日には、中部太平洋方面艦隊司令長官、南雲忠一海軍中将*1が自決しています。) サイパンの失陥を機に、岡田啓介らを中心とする重臣グループは東条 … ロシアがセルビア支援のために総動員をかけると ドイツは8月1日にロシアに宣戦布告し、第一次世界大戦が始まったのです。, ドイツは8月3日にフランスに宣戦布告、中立国のベルギーに侵入すると 今度はイギリスがドイツに宣戦しました。, あのころは相手国に「これからお前の国を攻撃するぞ」と宣言していたのです。 何とも悠長なことをしていたものですね。, その後、セルビア、モンテネグロ、日本、アメリカ合衆国などが参戦し 第一次世界大戦と呼ばれるようになったわけです。, ドイツとオーストリアと三国同盟を結んでいたイタリアは 開戦後中立を宣言し、翌年には連合国側(イギリス側)で参戦したため 同盟国側はほとんどドイツ一国で戦っている状態でした。, (引用元:世界史講義録 http://www.geocities.jp/timeway/kougi-113.html), この戦争は欧州戦争とも呼ばれ、日本人にとっては 「遠いヨーロッパの地で行われている戦争」くらいの認識しかありませんでした。, 第二次世界大戦と違って本土を爆撃されたり 原爆を投下されたりといった、日本に対する直接の被害がなかったこと その点が第一次世界大戦に対する意識が薄い一番の原因でしょう。, イギリスと日英同盟を結んでいた日本は、イギリス政府の要請で 連合国側としてこの戦いに参戦し、ドイツ軍の東洋艦隊の基地であった 中国の青島と膠州湾を攻撃し、青島を支配下に置くことになります。, 日本にとって遠いヨーロッパで行なわれている戦争など あまり関係なかったのですが 参戦の本当の狙いは 中国での勢力拡大にあったわけです。, 日本はそのほかにも海軍による連合国側の輸送船団の護衛や シベリア出兵なども行っています。, 第二次世界大戦での日本人の死者数は 民間人と 朝鮮・台湾の兵役犠牲者を含んだ数字で約310万人でした。, これに対して第一次世界大戦での日本人の死者はわずか415人です。 戦傷者も907人でした。, 日本本土に被害が及ばなかったことと 死傷者の数が極めて少なかったことが 日本人の第一次世界大戦に対する意識の低さの原因となっているでしょう。, 中国での勢力拡大を目論んでいた日本にとって日英同盟を結んでいたイギリスからの参戦要請はまさにタイムリーなものでした。, 遠いヨーロッパで行なわれている戦争は日本には参戦理由のないものでありこの要請がなかったら参戦することはなかったでしょう。, 日本としてはそれほど大きい軍事行動も取らず死傷者の数も少なかった第一次世界大戦ですが世界的に見れば、戦死者992万人、戦傷者2122万人行方不明者775万人を出した人類史上初の世界大戦でした。, 世界各地では第一次世界大戦100周年を記念して記念式典が行なわれています。この戦争でお亡くなりになられた方のご冥福をお祈りします。. 「砂漠の中の一粒」コミュ「南京」トピで、こんなコメントがありました。1938年、国際連盟で中国政府代表が、「南京の死者は2万人」と演説。1946年、東京裁判では「南京大虐殺で死者20万人」。1985年、南京大虐殺記念館が建てられる、死者30 // もりもりです。 真珠湾攻撃は、私たち日本人にとっては、いつまでも忘れることのできないのではないでしょうか! いかなる理由があったにせよ、戦争は悲惨な結末しかありません。 それなのに世界ではいまだに戦争があります。 人はなぜ過去から学ぶことができないのでしょうか? 日本はそのほかにも海軍による連合国側の輸送船団の護衛や シベリア出兵なども行っています。 (参考文献:Wikipedia 第一次世界大戦下の日本) 圧倒的に少なかった第一次世界大戦の死者数 第二次世界大戦での日本人の死者数は // ]]>, *1:南太平洋海戦後、佐世保鎮守府長官、第一艦隊長官などを経て中部太平洋方面艦隊司令長官としてサイパン着任。死後海軍大将に昇進。, システム運用屋が、日々のあれこれや情報処理技術者試験の攻略を記録していくITブログ…というのも昔の話。今や歴史メインでたまに軍事。別に詳しくないので過大な期待は禁物。, lmacs510さんは、はてなブログを使っています。あなたもはてなブログをはじめてみませんか?, Powered by Hatena Blog , u—ðŽj‹³‰È‘‚Å‚Í‚È‚º”íŠQŽÒ”‚ªƒCƒ“ƒtƒŒ‚É‚È‚é‚Ì‚©v, u•¶‹ž‚Q’†vu–{‘½Œö‰h„Œvvuƒ\˜A”Å‘æ‚QŽŸ¢ŠE‘åíŽjv, u“ú–{‚̐N—ª\‚µ–ó‚È‚¢‚ƎӍ߁A‚Q“x‚Æ‚±‚̂悤‚È‚±‚Æ‚Í‚µ‚Ü‚¹‚ñv, u‚Ú‚­‚ç‚Ì”­Œ©I “ŒƒAƒWƒA‚ÌŽ€ŽÒ‚P‚W‚W‚Q–œlv, u ŒRlŽ€ŽÒ‚P‚R‚Q–œAs•û•s–¾ŽÒ‚P‚R–œA•‰ŽÒ‚P‚V‚U–œA‡Œv‚R‚Q‚P–œl v, Ž€ŽÒ‚X‚R‚Q–œ‚TçlA•‰ŽÒ‚X‚S‚V–œlA“G‚É•ß‚Ü‚è˜A‚ê‹Ž‚ç‚ꂽs•û•s–¾‚Q‚W‚X–œlA‘Œv‚Q‚P‚U‚W–œ‚Tçl, ‹ß”NA–žB‚Å‚Í‚U‚O‹ß‚¢u–œlBv ‚ªŒ©‚‚©‚Á‚½, uŒRl‚ÌŽ€ŽÒ‚T‚O–œlAŽÒ‚P‚V‚O–œlA–¯ŠÔl‚ÌŽ€ŽÒ‚P‚O‚O–œl v. また、都市爆撃を免除した3つの例を示した[59]。, 11月に予定していたオリンピック作戦の前に日本に残存する航空戦力を減らすため、日本側が東北地方へ集結させていた飛行機を破壊するため9~10日にかけて爆撃を実施した[60]。, なお、8月1日から翌2日未明にかけて行われた水戸・八王子・長岡・富山に対する一斉空襲は、司令官カーチス・ルメイが自身の昇進と陸軍航空隊発足記念日を祝う目的で一斉に行われた戦略上特に意味のない作戦で、1日の弾薬使用量がノルマンディー上陸作戦を上回るように計算されていた。[要出典], なお、8月1日から翌2日未明にかけて行われた水戸・八王子・長岡・富山に対する一斉空襲は、司令官, 今井清一「戦略爆撃と日本」日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室、2007年。2014.10.27閲覧, NHKスペシャル取材班『ドキュメント 東京大空襲: 発掘された583枚の未公開写真を追う』新潮社134-135頁, NHKスペシャル取材班『ドキュメント 東京大空襲: 発掘された583枚の未公開写真を追う』新潮社136頁, ゴードン・トマス, マックス・モーガン・ウイッツ 『エノラ・ゲイ―ドキュメント・原爆投下』 TBSブリタニカ298頁, ゴードン・トマス, マックス・モーガン・ウイッツ 『エノラ・ゲイ―ドキュメント・原爆投下』 TBSブリタニカ268-269頁, 柳澤潤「日本陸軍の本土防空に対する考えとその防空作戦の結末」戦史研究年報 (11), 84-105, 2008-03 防衛省防衛研究所, 「戦災復興 日本再生の記憶と遺産」 『日本経済新聞』 2011年(平成23年)8月10日 朝刊社会面, 熊本県の百年(1987) 森田誠一ら、山川出版社、東京、市制百周年記念 熊本 歴史と魅力 (1989)、 熊本日日新聞 熊本 ふるさとの思い出 写真集 明治大正昭和 (1955) 図書刊行会など, 伊勢市 編『伊勢市史』伊勢市役所、昭和43年3月31日、954p.(445ページより), 日本の空襲編集委員会 編『日本の空襲―五 愛知・三重・岐阜・福井・石川・富山』三省堂、1980年6月1日、360p.(241ページより), 上記の通り、中国大陸からの空襲はこの時点ですでにおこなわれており、マリアナ諸島からの空襲が実施されていなかったという意味である。後述の8月8日の空襲は日中に実施された。, 諸説あり、『続久留米市誌』上巻では212人、『目で見る久留米の歴史』・『久留米市史』では214人, 中山隆志 『一九四五年夏 最後の日ソ戦』 中央公論新社〈中公文庫〉、2001年、175頁。, “Former U.S. aviator revisits Tokyo, the city he firebombed in 1945”, http://www.japantimes.co.jp/news/2015/12/10/national/history/former-b-29-aviator-meets-survivor-tokyo-firebombing-views-images-devastation/#.VmreO2bUiUl, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=日本本土空襲&oldid=80348929, 4月15日 - 城南京浜大空襲。B29・202機。死者841名。焼失6万8400戸。主として羽田・大森・荏原・蒲田方面。隣接している, 5月24日 - B29・525機。死者762名。焼失6万5千戸。主として麹町・麻布・牛込・本郷方面。, 5月25日 - 山手大空襲。B29・470機。死者3651名。焼失16万6千戸。主として中野・四谷・牛込・麹町・赤坂・世田谷方面。国会議事堂周辺や皇居の一部も焼失。, 神奈川県下の空襲は合計52回。 罹災者64万4044名、焼失14万3963戸の被害。横浜は内25回(上記の大空襲を含む)#, 10月25日 大村大空襲 当時東亜最大規模と言われた第21海軍航空廠があった長崎県, 3月18日朝 大分空襲 航空隊施設を狙ったものと見られ、宇佐・大分・佐伯が空襲を受けた。, 3月18日朝 鹿児島初空襲 グラマン・カーチス等の艦載機40機が桜島上空に現れ、郡元町にある海軍航空隊を急降下爆撃。, 午後11時以降の深夜から空襲、B29 154機(米軍資料):60機(日本軍部発表), 7月2日 下関空襲 B29・143機。死者324人。罹災人口38,700人。罹災家屋8,600戸。6月29日に続く2度目の空襲。, 7月7日 明石空襲 6回目 B29・124機。油脂焼夷弾・約70,000発(975トン)。死者355人。市街地の63%が焼失。, 大分はこの他にも4月21日、5月5日、8月10日など本土空襲での米軍の通り道であったため度々空襲を受けた。一連の空襲での死傷者は1,193人。, 海軍火薬廠、日本国際航空工業、第二海軍航空廠平塚分工場、横須賀海軍工廠造機部平塚分工場がターゲットであったとされ、人的被害は比較的少ないが大規模な爆撃。当時の市域における面積の約8割、戸数の約6割を焼失。, 7月18日 野島崎(千葉県白浜)艦砲射撃。死者6人。巡洋艦4隻、駆逐艦9隻によるもの。, 7月26日 徳山空襲 B29・約100機。死者482人、負傷者469人。市街地の90%を焼失。5月10日の空襲と合わせて旧徳山市街地は壊滅した。, 7月27日 2度目の鹿児島空襲。昼12時45分頃、3梯団からなるB29の爆撃を受けた。, レーダーが作用しにくい地形であるために、夜間や悪天候での爆撃を免除されていた15都市(長崎市と上表で背景黄の都市)。, 8月8日 八幡大空襲。B29・127機。死者2952人、焼失家屋数14,380戸。このときの火災による煙が、翌日の原爆の投下目標を小倉から長崎に変更させる一因となった。, 8月11日 加治木空襲 ダグラスA-20爆撃機18機による2回目の空襲。死者26人。役場をはじめ、諸官庁、学校がほとんど焼失。送電線・電話線も焼け、ラジオも聞けなかった。, チェスター・マーシャル(著)、高木晃治(訳) 『B-29日本爆撃30回の実録』 ネコ・パブリッシング、2001年、. この戦争でアジア・太平洋地域の人々に与えた惨害はじつに膨大で、 死者の数は約2000万人 をこえ、 それは日本人の死者数310万人をはるかにうわまわるものであった。 『日本陸海軍事典 下』原剛,安岡昭男編, 新人物往来社,2003,「大東亜戦争における地域別兵員および死没者数」(pp.250-251),「主要戦争・事変等における陸海軍死没者数」(p.254) 『日本の空襲』復刻版 全10巻(日本の空襲編集委員会編 三省堂 2003)第10巻総合統計 また、原爆被害(広島14万人・長崎7万人)を除いた空襲被害死者数と都道府県人口に対する割合についても参考として一覧にしました。 なお、空襲被害には青函連絡船における死者51人も含まれています。 1914年6月28日にオーストリア皇太子夫妻が ボスニア出身のセルビア人学生に ボスニアの州都サラエボで暗殺されたため オーストリア政府はセルビア政府の陰謀だとして 1か月後の7月28日にセルビアに対して宣戦布告しました. | しかし、連合国軍による無差別爆撃による民間人の大量虐殺に関しては戦時国際法違反であることが指摘されている[21]。国外でも、アレクサンドル・パノフ(元駐日ロシア大使)が「米国は、日本国民に対して少なからぬ重大な戦争犯罪を行いました。1945年3月10日の東京大空襲では一日で10万人以上の民間人が亡くなり、大阪、名古屋、その他の都市もそうした空襲に見舞われ、1945年8月の6日と9日の広島と長崎への原爆投下ですべてが終わりましたが、地表から消されたそれらの都市は、事実上、何ら軍事的意義を有してはいないのでした」と述べている[22]。, 攻撃は、ボーイングB-29に代表される戦略爆撃機による爆撃のみならず、英米の機動部隊艦載機や硫黄島などから飛来する機体による爆撃や機銃掃射も行われた。また、航空戦力によってだけではなく、沿岸部の都市では艦砲射撃によっても攻撃された所もある。, 米軍の戦時情報局は、戦況の正確な情報を持たない一般日本国民に対して「リーフレット心理作戦」を実行した。宣伝ビラ(伝単)をB29から撒くという方法で工作は行われ、米軍は1945年2月から終戦まで計460万部のビラを投下、[23]「大本営発表の虚実を暴いたもの」「軍閥が諸悪の根源であり天皇は関係ない」「空襲の日時、場所の予告」が主な内容だった。空襲の場所と日時をビラで事前に予告し、実際にB29が空襲することはビラの信用性を大いに高めた。特に7月28-29日の第12回中小都市空襲では、青森、大垣、一宮、宇和島、津、宇治山田に空襲予告ビラが一斉に投下され、その24時間後に大空襲があった。この大規模ビラ投下は8月1日、8月5日にも実行された他、原爆投下のニュースもビラでされた[24]。日本国民の中には、ビラの内容以上にビラの上等な紙質に衝撃を受ける者もいた[25]。, 日本の本土防空の基本案が初めて具体的に成文化されたのは1921年9月の「陸海軍航空任務分担協定」であり、1923年の「航空機以外ノ防空機関ヲ以テスル帝国重要地点陸海軍防空任務分担協定」であった。内容は、陸軍が重要都市、工業地帯を主体とする国土全般を受け持ち、海軍は軍港、要港や主な港湾など関係施設に対する局地防空を担当する。基本的には終戦までこの方針が保たれている[26]。, 陸軍は早くも1922年に東京、大阪に防衛司令部を置き、高射砲や照空灯部隊を指揮させる要地防衛部隊の編制を定めた。しかし、防空司令部が置かれるのは戦時のみで範囲も東京、大阪近辺のみ、他は各師団の管轄にゆだねるものだった。後に範囲は拡大され、1937年の日中戦争勃発で、防衛司令部は常設部隊に変わった。戦時の動員で戦力を強化する予定ではあったが、当時の常備高射砲部隊は七個中隊、二八門で、さらに航空部隊は付属しておらず、必要な時に一部を要地防衛に参加させる予定であった[27]。海軍の陸上担当区域は限られ、本土近海の防衛が主だが、鎮守府を中心に本土を4つの区に分けており、戦力は旧式艦が当てられ、防空は基地航空兵力を用いる決まりだが、戦時には大半が進攻作戦で不在になる体制だった[28]。1937年4月5日に防空法が制定されており、改正を重ね、防空壕の建設や空襲時には疎開などの民間防衛が実施された。, 1942年夏頃から陸軍の防空組織は強化され始めた。4月下旬、朝鮮軍管区にも防空実施が命じられ、本土全域防空体制に移行する[29]。5月に第一航空軍が新設され、続いて、第十八飛行団司令部、第十九飛行団司令部が設けられ、12月には防空戦闘機隊はすべて三個中隊を持ち、また司偵隊も専属の中隊に規模が大きくなり、防空の三個飛行団の合計は270機に増強されていた。8月には陸軍飛行学校も数機の戦闘機で防空に参加する体制になり、高射砲も強化され、装備砲数は4.5倍の増加が決定した[30]。従来、旧式化した九七式戦闘機を主力としていたが、4月から「屠龍」の配備を促進した[31]。海軍の内戦部隊所属の航空戦力は各鎮守府、警備府直属の航空隊だけであったが、1943年1月第五十航空戦隊が新設され、内戦部隊に協力することになり、内地に帰還中の航空戦隊も錬成のかたわら哨戒、索敵に当たった[32]。海軍は支那事変の経験から邀撃機の必要性を1938年頃から感じており、これが局地戦闘機の開発につながり、1939年9月に「雷電」の開発が始まり、後に「紫電」の開発も始まったが、局地戦闘機の開発は遅れ、1943年半ばに使用できた戦闘機は、従来の零式艦上戦闘機だけであった[33]。, 北九州被爆とサイパン陥落を受けた日本は防空組織を大型化した。1944年7月17日、陸軍は防衛総司令官の隷下戦力を三個飛行師団に増強。海軍では初の防空戦闘機部隊の「第三〇二海軍航空隊」と、内戦部隊に所属する呉航空隊、佐世保航空隊のうちの戦闘機隊を、作戦時に限って防衛総司令官の指揮下に入れるように定めた。部分的にではあるが、防空において初めて陸海の指揮系統が一元化した[34]。, B-29が北九州に来襲したことで対策が急務となった。高高度を飛行するB-29の迎撃には高高度戦闘機が必要であり、陸軍では2000馬力エンジンの「疾風」が1945年に入ってから使用されるようになったが、高高度性能は他機より良い程度で依然厳しい状態だった。そこで高高度性能を持つ百式司偵を武装し、これも防空に使用した[35]。夜間邀撃は従来の昼夜兼任から「屠龍」などによる専任部隊が設けられた[36]。海軍では、零戦はカタログ値では1万メートル以上上がれるが、実際は陸軍機と同様に高高度では活動が困難であった。局地戦闘機は、「雷電」も最初は高高度性能が厳しかったが、プロペラの改善で高度1万メートルを可能にし、「紫電」は空戦性能に優れていたので対戦闘機に回された[37]。しかし護衛のP-51は高度1万メートルでも運動性が低下せず安定して703 km/hを発揮することから、護衛戦闘機を振り切る高速な局地戦闘機として震電の開発が行われたが間に合わなかった。, 1944年には軍防空、民防空の強化充実が図られ、「東京航空要塞」が確立されていたとする主張もある[38][39]。しかし、敵の大規模な空襲に対し、首都近辺では高射砲の砲弾不足も見られた[40]。, 大戦後期に新型の高射算定具や要地防空用に電波標定機(陸軍開発の射撃レーダー)・防空指揮通信機・特種指揮電話機などが配備されていたため、射撃精度は従来より向上していたが、高射砲も性能不足・門数不足・電波標定機不足によりドイツのような強力な迎撃を行うことは難しかった。重高射砲である五式十五糎高射砲も開発されたが、2門が製造され末期に配備されたにとどまる。先進兵器の開発も進められ、ドイツの技術供与でロケット戦闘機「秋水」や陸軍のジェット戦闘機キ201「火龍」、ビームライディング地対空誘導弾奮龍の試作や計画がされたが終戦に間に合わなかった。, 対空砲火の不足によりP-51が爆撃機を離れ機銃掃射で飛行場を襲撃することも増えたため、航空機や飛行場を様々な手段で隠す手法が用いられた。滑走路を畦道や水田に偽装したり、普段は車輪を付けた住宅の張りぼてや樹木を滑走路に置き離着陸時に動かすなどの手法が考案されたが、これらは偵察写真で判明しておりあまり効果が無かった[41]。, 空襲は1945年(昭和20年)8月15日の終戦当日まで続き、全国(内地)で200以上の都市が被災、被災人口は970万人に及んだ[42]。被災面積は約1億9,100万坪(約6万4,000ヘクタール)で、内地全戸数の約2割にあたる約223万戸が被災した[42]。その他、多くの国宝・重要文化財が焼失した。米国戦略爆撃調査団は30万人以上の死者、1,500万人が家を失ったとしている[43]。, ※広島と長崎は原爆被害を含む。沖縄の被害については沖縄戦を参照のこと。東京都の被害市町村数は23区を含む。, 損失家屋数、死者数は[44]より。 [CDATA[ 経過 戦略爆撃の実施前. だから、戦争そのものも、政治信条が右のものも左のものも、よく読み、観るようにしています。 わたし、思うのですが、日本ほど、戦争をしたくない国は珍しい。 戦争をしたい人は、どこかで見た記憶がありますが、1%未満。 日本本土空襲(にっぽんほんどくうしゅう)は、第二次世界大戦中に連合国軍が日本各都市に対して行った爆撃である。1944年(昭和19年)中頃から本格的な戦略爆撃となり、長期間の大規模な無差別爆撃も実施された。, 日中戦争(支那事変)中の1938年(昭和13年)2月23日に当時は日本領外地だった台湾の台北松山基地にソ連空軍志願隊と中華民国空軍が共同で空襲を行い、民間人に若干の被害。, 1938年(昭和13年)5月20日に中国軍B-10爆撃機が九州に侵入、爆弾ではないが反戦ビラを投下。その後、日本軍は同年12月から重慶爆撃を開始。, 第二次世界大戦における日本本土の初空襲は1942年(昭和17年)4月18日のドーリットル空襲で、航空母艦「ホーネット」から中型陸上機のB-25爆撃機16機が発進、東京、川崎、横須賀、名古屋、神戸などへ空爆。その後、日本軍も6月と9月にアメリカ本土空襲。, 1941年11月、マーシャル参謀本部長は秘密記者会見で、フィリピン基地から日本都市を焼夷爆撃する構想を述べる[1]。日米開戦直前、アメリカ政府はボーイング社に試験飛行もしていないB-29爆撃機を250機も発注したが、真珠湾攻撃で発注数を倍加、翌1942年2月にはゼネラル・モーターズ、ノース・アメリカン、ベル社にも協力を求め1600機の生産を命じた[2]。しかし、実現まで2年を要した[2]。, 1942年に日本軍の焼夷弾によるアメリカ本土空襲を行うと、米空軍も焼夷弾の開発に踏み切り[3]、1942年には投下後バラバラになって着地すると尾部からナパームを噴射しながら跳びはねるという強力な着火能力をもつ小型焼夷弾M69が開発された[2]。M69を開発した国家防衛調査委員会(NDRC)焼夷弾研究開発部門長でスタンダード・オイル社副社長のラッセルは「軍需工場を爆撃する精密爆撃よりも焼夷弾による市街地絨毯爆撃を行うべきだ」と主張した[2]。, 1943年のNDRC作成の情報部焼夷弾レポートでは「日本の都市はほとんどが木造住宅でしかも過密なため大火災がおきやすい、住宅密集地域に焼夷弾を投下して火災をおこし、住宅と混在する、ないしはその周囲にある工場も一緒に焼き尽くすのが最適の爆撃方法である」と報告された[2]。, 1943年8月27日、アメリカ陸軍航空軍司令官ヘンリー・アーノルド大将は日本敗北のための空戦計画を提出する。日本都市産業地域への大規模で継続的な爆撃を主張し、焼夷弾の使用にも言及していた[4]。アーノルドは科学研究開発局長官ヴァネヴァー・ブッシュから「焼夷攻撃の決定の人道的側面については高レベルで行われなければならない」と注意されていたが、アーノルドが上層部へ計画決定要請を行った記録はない[5]。, 1943年2月に、日本都市の建築特性に適した爆撃戦略を練るためにアーノルドは、作戦分析委員会COAに目標の検討を依頼しており[6]、COAから1944年10月10日付で「極東における経済目標に関する追加報告書」が提出され、第一目標を航空産業、第二目標を都市工業地域、第三目標を機雷の空中投下による航行妨害としており、第二目標は本州六都市に対する焼夷攻撃であり、9月のCOA会議では六都市の住民58万4000人を殺した時に起こる完全な混乱状態の可能性が論じられた。戦略情報局長ウィリアム・マックガヴァンは心理的効果を主張し、日本の子供は火事に対する恐怖を刷り込まれているので焼夷弾はパニックと結びつきやすいので、地域爆撃を全面支持し、「地獄を引き起こせ。国中の日本人に参ったと言わせろ」と提案した。アーノルドはこの追加報告書を採択した[7]。, 1943年8月、米英首脳がカナダのケベックでケベック会談を行い、中国を基地とするB-29の28機ずつの10編隊(逐次20編隊に増強)から始め、ドイツ降伏から12か月以内に日本を屈服させることを目標にしたセッティング・サン計画がアメリカから提案された[8]。米陸軍のジョセフ・スティルウェルは兵站の支援が困難と考え、セッティング・サン計画の代案として、桂林―長沙に沿う数基地を前進基地とし、カルカッタ地区を駐留飛行場とするツヮイライト計画を提出した。1943年10月13日、航空本部長ヘンリー・アーノルドはツヮイライト計画の改訂案をルーズベルト米大統領に提出。前進基地を四川省の成都とし、日本本土攻撃の開始を1944年4月1日と予定した。大統領はこれを承認し、11月10日に英国と中国から飛行場の確保を取り付け、この計画は日本の早期持続爆撃を目的としたマッターホルン作戦として発足した[9]。, 1944年(昭和19年)6月にB-29爆撃機による初めての空襲が八幡製鉄所を目標にして中国の成都の基地から行われた(八幡空襲)。成都からの爆撃はB-29航続距離の制約で九州北部しか爆撃できず、成都へのB-29用燃料輸送の困難のため出撃回数も限られていた。このためにアメリカはマリアナ諸島を攻略、大規模な航空基地を建設すると日本本土の大半が攻撃目標となった。空母搭載機による日本本土への攻撃も、沖縄に対する1944年10月10日の十・十空襲、1945年2月の関東地区空襲(ジャンボリー作戦)などが行われた。, 当初1944年(昭和19年)11月、第21爆撃集団司令官ヘイウッド・ハンセル准将は1944年11月23日から出撃命令を出し、初空襲は1944年11月24日となったが、マリアナ基地の未完と悪天候で戦果が上がらなかった[10]。東京、名古屋に対する爆撃で主目標を中島飛行機、三菱重工、第2目標を市街地とする爆撃の命令を行いつつも、11月29日には、東京工業地域を第一目標とした最初のレーダー照準による夜間爆撃が行われ、1945年1月3日には名古屋のドッグ地帯と市街地を第一目標とした昼間爆撃を実施している。これらの爆撃でハンセルは焼夷弾による無差別爆撃をテストしており、大規模な無差別爆撃の準備を進めていた[11]。, アメリカ陸軍航空軍司令官ヘンリー・アーノルドは中国からのB29の爆撃をやめさせてその部隊をマリアナに合流させ、1945年1月20日、ハンセルの後任としてカーチス・ルメイ少将を司令官に任命した。アーノルドはルメイが中国から行った高い精度の精密爆撃の腕を買い、1944年11月13日の時点でルメイの異動を検討していた[12]。また、ルメイは、中国で作戦中の1944年12月、漢口大空襲でB-29と焼夷弾による大規模な都市空襲を実行して市街地に大損害を与えた経験があった。, ルメイはすでにハンセルによって準備、実験された無差別爆撃の方針、戦術を基本的に踏襲したが[13]、ルメイの独創性は進入高度の変更にあった。従来は高度8500mから9500mの昼間爆撃を行っていたが、高度1500mから3000mに変更、理由はジェット気流の影響を受けないこと、エンジン負荷軽減で燃料節約し多くの爆弾を積めること、爆撃が正確に命中すること、火災を密度で合流し大火災にできることであった。しかし低空では敵の迎撃機、対空砲があるため夜間爆撃にした。また機銃、弾薬、機銃手を外し爆弾を200キロ増やせるようにし、編隊ではなく単機直列に変更、これに乗員は恐怖したが、B29の損害は軽微だった[14]。3月10日の東京大空襲から焼夷弾を集中投下する無差別爆撃が本格的に開始され、耐火性の低い日本の家屋に対し高い威力を発揮した。, 1945年4月7日以降は硫黄島配備のアメリカ陸軍のP-51やP-47、イギリス海軍空母艦載機のスピットファイアなどの戦闘機も空襲に参加、B-29爆撃隊の護衛にあたり、地上施設の攻撃も行った[15]。硫黄島は日本爆撃の際に損傷したり故障したB-29の不時着用の基地として重要だった[15]。また、B-29は関門海峡や主要港湾への大規模な機雷投下も行い日本の海上輸送を妨害(飢餓作戦)[16]。, 公式な第二次世界大戦の最後の戦死者は、8月15日の午前10時過ぎに、イギリス海軍空母「インディファティガブル」から化学製品工場を爆撃すべく千葉県長生郡に飛来したグラマン TBF アヴェンジャーが日本軍に撃墜され、乗組員3名が死亡したものだった。なお、同作戦でスーパーマリン シーファイアが零式艦上戦闘機との戦闘で撃墜され、フレッド・ホックレー少尉が無事パラシュート降下し捕えられ、その約1時間後に玉音放送があったもののそのまま解放されず、夜になり陸軍将校により斬首された事件も発生した(一宮町事件)。, なお、空襲以外の日本本土への攻撃として、英米海軍艦船などによる釜石艦砲射撃や室蘭艦砲射撃のような艦砲射撃も行われており、日立、清水、浜松など製鉄所や軍需工場が存在するいくつかの工業都市が破壊された。1945年(昭和20年)5月31日には台北大空襲が行われた。, マリアナ基地にいた原爆投下を任務とする第509混成部隊は、1945年7月20日、東京空襲に初めて参加した。目的は、日本人に単機による高空からの一発の爆弾投下に慣れさせるためであった。以降、広島、京都、小倉は原爆投下目標地のため爆撃を禁止されたが、他は自由に爆撃させた[17]。, 原爆投下目標の選定については、ハリー・S・トルーマン大統領が、婦女子の被害を避けるため原爆攻撃目標から東京と京都は除くようヘンリー・スティムソン陸軍長官に指示し、原爆投下目標都市は広島・小倉・新潟・長崎と決定されたとする説[18]、原爆投下作戦命令書を立案した第509混成部隊長ポール・ティベッツ大佐が細目を決める際、第21爆撃集団司令官カーチス・ルメイ中将が「京都は大した軍事的目標ではない。神社みたいなものがいっぱいあるだけだ。それに普通の市民を爆撃してみたって何の役にも立ちはしない―引き合わんよ」と反対して軍事施設の多い広島への投下を支持したためとする説[19]などがある。, 京都が大規模空襲を免れた経緯については、文化財保護の目的で作成されたウォーナーリストによって京都の大規模空襲が避けられたという説があるが、実際には初期の段階で原爆投下目標都市として京都が計画されていた上に、小規模ながら西陣地区などの京都空襲も行われており、文化財保護の為に京都を空襲しなかったという説は根拠性が乏しい。, ポツダム宣言受諾後にも既に開始していた空襲は継続され、8月15日の空襲を予告したビラも投下されていたが[20]、玉音放送を妨害しないため15日未明の土崎空襲終了を最後に爆撃は終了した。, 終戦後、日本本土空襲について米国戦略爆撃調査団によって報告書が作成されまとめられた。サンフランシスコ講和条約によって日本国政府がアメリカへの補償請求権を放棄したことで、無差別爆撃を含む日本本土空襲に関する補償も行われることはなかった。 合わせても、日本の自殺者数が上回っています。 だから僕は思うんです。 次世界大戦 あの戦争で何人の日本兵が戦地に赴き、そのうち何パーセントぐらいが帰還したのでしょうか。ご存知の方、宜しくご教授ください。(出典も教えて頂ければ幸いです〉戦死者数は130万人を超えるとされていますが(原朗「戦時統制経済の開 日清戦争 : 1894 º7月~ 1895 º3月:の死者 日本 清 備考 1万 3800人 3万 5000人 清軍の 死亡 者は不明な点も 多い 日露戦争 : 1904 º2月~1905 º9月:の死者 日本 ロシア帝国 備考 11万 5600人 4万 2600人 第 1. // もりもりです。 真珠湾攻撃は、私たち日本人にとっては、いつまでも忘れることのできないのではないでしょうか! いかなる理由があったにせよ、戦争は悲惨な結末しかありません。 それなのに世界ではいまだに戦争があります。 人はなぜ過去から学ぶことができないのでしょうか? 自殺者数 224,297 人. 現代の戦争による死者数. 日々の生活で「こんなときはどうする?」「そうだったのか!」という、役に立ちそうな情報なんかを発信しています。, 毎年夏になると原爆記念日の8月6日と8月9日、終戦記念日の8月15日に 第二次世界大戦の犠牲になられた方に黙祷を捧げます。, 地域によってはサイレンを鳴らしてそのことを知らせるところもあり 戦争の悲惨さを忘れずにという平和への願いの意識が高まります。, しかし第二次世界大戦よりわずか30年前に戦われた 第一次世界大戦については、日本も参戦したにもかかわらず 日本人の意識の中では印象がたいへん希薄になっています。, 同じように世界を巻き込んだ戦争だったのに 第一次世界大戦はなぜこんなに印象が薄いのか? それは年代が古いからだけではないと思います。, ヨーロッパの列強は国力増大を目指して複雑な関係にあり ドイツとオーストリアとイタリアは三国同盟を結び イギリスとフランスとロシアは三国協商を結んでいました。. (adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({}); 広島の原爆の 死者数が約14万人 とされているので、 それをはるかに上回る数字となっています。 過去の戦争による死者数. 負傷、行方不明者数は[45]より。 最近のニュースで北朝鮮のトップである金正恩と韓国大統領である文在寅の間で朝鮮戦争の終結を明記した板門店宣言が発表されました。, 朝鮮戦争は、1948年に成立した国家である大韓民国(韓国)と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の間で生じた戦争のことです。, この戦争の結果、朝鮮半島は北部の朝鮮民主主義人民共和国と南部の大韓民国に分断され、冷戦における前線のひとつとなりました。, しかし、アメリカはヤルタ会談やポツダム会談などでのソ連の急激な領土要求に警戒心を抱き始めます。, ソ連は東ドイツなどのヨーロッパの東側の国々を衛星国という傀儡国として独立させ、ワルシャワ条約機構という組織を作り、社会主義国の勢力を拡大します。, のちにこれらのことはイギリスの首相であったウインストン・チャーチルによって『鉄のカーテン』という風に揶揄していました。, さらに、元々アメリカとソ連という国はそれぞれ資本主義と共産主義という全く違う政治体制を取っていたため、馬が全然合わなかったのが主な要因の一つですが、これによってアメリカはソ連との対立姿勢を取り始め冷戦という戦後の新たな対立構造を構築し始めました。, まず中国です。中国は日中戦争の勝利後、日中戦争において国共合作という協力体制にあった蒋介石率いる国民党と毛沢東率いる中国共産党との対立が再び起こり始めました。これを国共内戦といいます。, 最初の方はアメリカなどが支援している国民党が優勢でしたが、時代が立っていくにつれ農民の支持を受けた共産党に逆転。1949年に国民党は台湾に移転し、中国大陸には中国共産党による国家中華人民共和国が成立しました。, 毛沢東は向ソ一辺倒と呼ばれるソ連と徹底的に仲良くする外交を採りました。1950年2月、ソ連と中国は中ソ同盟を締結します。, 1945年、終戦と共に日本の植民地であった朝鮮半島はアメリカとソ連によって分割され、北はソ連、南はアメリカに分割され直接的に統治されてしまいました。, そして直接統治されてから3年後朝鮮半島のアメリカ統治地域で李承晩によって資本主義国である大韓民国(韓国)が成立します。, 対して朝鮮半島のソ連統治地域では金日成によって社会主義国である朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が同じく誕生します。, ちなみに冷戦においての分断国家は多くあり、主な例をあげるならドイツやベトナムなどが分断されていました。, 1950年3月、金日成は朝鮮半島の統一するためにスターリンや毛沢東に対して朝鮮半島における戦争の許可を打診します。, スターリンは最初はこの戦争に消極的でした。しかし、中国が共産化しさらに朝鮮半島も完全に共産化するとソ連の利益となると踏んだスターリンは、ついに金日成に毛沢東の同意を得ることを条件に開戦にGOサインを出します。, 毛沢東も朝鮮半島から資本主義国を追い出すことに対して異論はなく、北朝鮮は韓国に奇襲攻撃をしかけ戦争が始まりました。, 北朝鮮の奇襲攻撃によって始まった朝鮮戦争ですが、最初の頃は北朝鮮が圧倒的に優勢でした。, それもそのはず、アメリカは最初の頃は日本とフィリピンなどしか防衛せず、台湾や朝鮮半島などの旧日本の植民地であったところは『その土地に住んでいる人に任せておけ』という朝鮮半島のことを見捨てたも同然な対応を取っていました。, さらに、この頃の韓国軍の装備はソ連の兵器などを援助してもらった北朝鮮軍とは比べものにならないほどに貧弱なもので北朝鮮の猛烈な攻撃に耐えることができませんでした。そのため、韓国は一時は朝鮮半島の南東の都市である釜山まで追い詰められ韓国は崩壊寸前でした。, しかし、この状況をみてまずいと思ったアメリカはようやく韓国に援助を行い軍事介入を始めていきます。, そしてGHQ総司令官としても知られているマッカーサーによってソウル近くの仁川というところへの上陸作戦に成功すると一気に逆転。, 逆にアメリカを始めとする国連軍によって朝鮮半島の北の端にまで北朝鮮軍を追い込みます。, (美国に抗って朝鮮を援助するという意味。ここにおける美国はアメリカのこと。米国ではないよ), をスローガンに北朝鮮に圧倒的な支援を行い、再び北朝鮮と韓国の国境線である36度線のところまで前線を押し込み再び形勢はふりだしに戻りました。, 結果、両軍36度線付近で膠着し始め1953年にソ連のスターリンがなくなると板門店というところで休戦協定を結び朝鮮戦争は一旦終わりを迎えました。, 朝鮮戦争は北朝鮮29万人、中国軍13万5000人が戦死。毛沢東の長男もこの朝鮮戦争で亡くなっています。, 一方、韓国28万人、アメリカ4万人、そのほか国連軍合わせて1800人が戦死してしまいます。, 朝鮮戦争は痛み分けという形で終わりましたが、さらにその上で民間人が北朝鮮、韓国合わせて167万人という朝鮮半島に多大なる被害を出してしまいました。, 朝鮮戦争において日本はアメリカの前線基地としての役割を果たしており、また、朝鮮戦争で使う武器や兵器などは日本から発注していました。, そうなると日本の製品は飛ぶように売れ、作ったら作った分だけ儲かるという大フィーバーがおこります。, これを特需景気といいますが、この特需景気によって第二次世界大戦でボロボロとなっていた日本は一気に復活。1950年代に入ると高度経済成長に突入して『もはや戦後ではない』と言われるほど日本の経済力は増え続けました。, 第一次世界大戦の時には大戦景気に沸き、第二次世界大戦においては空襲によって産業が破壊され、朝鮮戦争では再び日本の産業が復活する。戦争というのは皮肉なものです。, 冷戦によって分断されてしまった国は朝鮮半島だけではなく、ドイツやベトナムなども分断されています。, ドイツの場合はソ連支配地域は1949年にドイツ民主共和国(東ドイツ)、アメリカ、イギリス、フランス支配地域などはドイツ連邦共和国(西ドイツ)といて成立し、1960年には2つに分けられていたベルリン市内にベルリンの壁が建設されてしまいます。このベルリンの壁は1989年の崩壊まで冷戦を象徴するものになっていくのですがそれはまた別の話。, 一方、ベトナムでは北緯17度線を境に北には共産主義国であるベトナム社会主義共和国、南には資本主義国であるベトナム共和国が誕生することになります。, この二国はのちにベトナム戦争という形で朝鮮戦争のような戦争が起きることになるのですが、それはまた別の話。, ・朝鮮戦争とは1950年から起きた朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)と大韓民国(韓国)との間で起きた戦争のこと。, ・朝鮮戦争はソ連や中国は北朝鮮の支援をし、韓国にはアメリカなどの国が支援していた。. ブログを報告する. 被害市町村数は[46]より。, 調査団体、研究者、新聞社各紙によって数値のばらつきがあり、最少の約24万から最大の100万人の説が存在する。 1938年(昭和13年)5月20日に中国軍b-10爆撃機が九州に侵入、爆弾ではないが反戦 ビラを投下。 1945年8月15日正午、昭和天皇による終戦の詔書(大東亜戦争終結ノ詔書)がNHKラジオにより放送(玉音放送)され、日本国民に「大東亜戦争」における日本の降伏が伝えられました。, 終戦記念日である本日8月15日の記事は、日本の敗戦および日中戦争から太平洋戦争にかけての、日本国民の犠牲者数について。ついでに資産損失なども。(なお、日本国民以外にも本当に多くの犠牲者を出しているのですが、本記事では日本国民の犠牲を中心としています。), 1944年6月マリアナ沖海戦で敗北した日本は、同年7月にサイパンを失陥します。これにより、日本本土は米爆撃機B29の行動圏内に入りました。1944年11月からは本土空襲が始まり、日本の戦争経済は急速に崩壊していきます。(この時点で日本に勝ち目は無くなりました。ちなみに7月6日には、中部太平洋方面艦隊司令長官、南雲忠一海軍中将*1が自決しています。), サイパンの失陥を機に、岡田啓介らを中心とする重臣グループは東条内閣の打倒工作に乗り出し、東条の抵抗によるすったもんだ(海相更迭や異常な兼任の解消、重臣入閣画策など)はあったものの、東条内閣は総辞職となり小磯国昭予備役陸軍大将による新内閣が誕生します。この際、天皇の強い意向で和平派の米内光政が海軍大臣として入閣、米内海相−井上成美次官-高木惣吉少将のラインによる終戦工作が秘密裏に開始され、日本は終戦に向けて舵を切り始めることになりました。しかし、小磯内閣もはかばかしい成果を挙げることは出来ず、1945年4月に退陣、鈴木貫太郎内閣に交代します。, 5月7日のドイツ降伏を受けて、アメリカのトルーマン大統領は日本に降伏を勧告します。これに対し、日本は5月11日から六巨頭会議(首相、外相、陸相、海相、参謀総長、軍令部総長)を経て、6月8日の御前会議で本土決戦を正式に決定します。なお、この際、戦争目的が「国体を護持し皇土を保衛し征戦目的の達成を期す」と再定義されました。本土決戦に勝って、国体と領土だけでも確保できれば、戦争目的達成です。ゲーム風に言うと、勝利条件が緩くなったわけです。実現できるかはさておき。(ちなみに、太平洋戦争では日本の戦争目的が割とあやふやでした。細川護貞*2の日記に、開戦後2年を経過した1943年末に至っても政府と軍の間で戦争目的に関する議論が繰り返されていたことが記されています。), 6月22日、昭和天皇自らの発意により、懇談会と称して秘密御前会議が開催されます。軍事と並行して、外交を行うよう指示がなされました。これを受けて、7月13日、ソ連に対し和平の仲介を申し入れを行います。しかし、この時すでにソ連は対日参戦をアメリカに約束しており、ソ連は日本に対して曖昧な態度を取り続けて回答を引き延ばします。, 7月26日、英米中はポツダム宣言を発表します。ポツダム宣言は、米戦時情報局(OWI)による放送を通じて、7月27日に日本外務省や陸海軍が受信しますが、翌7月28日には日本政府によるポツダム宣言「黙殺」がメディアにより報道されます。この「黙殺」は、鈴木首相の失言と言われていましたが、実際には首相の記者会見より前に、各メディアが「政府は黙殺」「笑止、対日降伏条件」などの扇情的見出しを付けて報道したようです。同日午後、鈴木首相の定例記者会見が行なわれ、各メディアは「ポツダム宣言はカイロ宣言の焼き直しであり重視せず」との鈴木首相の発言を報道。米メディアは「ignore(無視)」「reject(拒否)」と訳して報道しました。このため、世界は日本政府がポツダム宣言を無視または拒否したものとして受け取り、これは、米国の原爆投下、ソ連の対日参戦に口実を与えることとなります。, 8月6日8時15分、広島に原爆が投下されます。トルーマン大統領は、投下した爆弾は原子爆弾であると発表。日本陸海軍は調査団を広島へ派遣します。, 8月8日、ソ連は日本に対して宣戦布告を行い、翌8月9日未明にソ連国境から進撃を開始します。日本はソ連参戦の兆候を事前に掴んでいたようですが、ソ連参戦時期を見誤ったと言われています。, 同日午後には、二度の臨時閣議が開かれましたが、22時を過ぎても意見がまとまりませんでした。, 8月10日、午前0時3分、御前会議が開かれます。会議では、阿南陸相、梅津参謀総長、豊田副武軍令部総長による、降伏にあたっての4条件要求(国体護持・自主的武装解除・自主的戦犯処罰・保障占領拒否)が焦点となりました。米内海相、東郷茂徳外相、平沼騏一郎枢相の3名は、4条件を提示して決裂することをおそれ、1条件(国体護持)のみでのポツダム宣言受諾(外相案)を主張します。, 午前2時頃、鈴木首相が昭和天皇へ意見を求め、これに対し昭和天皇は明確に外相案を支持します。、いわゆる「聖断」ですね。, 10日早朝、日本は連合国に対し、「天皇の国家統治の大権」を変更しないことを条件にポツダム宣言受諾を申し入れました。, 8月12日午前0時45分、米サンフランシスコ放送は、日本の申し入れに対する連合国回答文を放送します。降伏後の天皇の処遇については正面から触れず、以下のように伝えられました。, この回答は国体論者を刺激し、陸海軍の両総長による受諾反対上奏、陸軍内部におけるクーデター主張などが起こります。, 8月14日、昭和天皇の発意による御前会議が開催され、昭和天皇の二度目の「聖断」により、連合国回答文の受諾が決定されます。, 8月15日正午、冒頭でも述べましたが、昭和天皇による終戦の詔書(大東亜戦争終結ノ詔書)がNHKラジオにより放送(玉音放送)され、日本国民に「大東亜戦争」における日本の降伏が伝えられました。, さて、ざっと降伏までの経緯をたどってみました。ここからは、冒頭で述べた通り、日本国民の犠牲者数について書きたいと思います。, 日中戦争勃発から敗戦まで、植民地籍の人も含めて、少なく見積もっても、戦死者(戦病死含む)約230万人。これに加えて、民間人犠牲者が約80万人。, 生き残った人々も、家族や親しい人の喪失、体や心の傷、経済的損失、生活基盤の崩壊などを被りました。, なお、戦死者の内、餓死が約60万人といわれています。(栄養失調での抵抗力喪失による病死などを含めた「広義の餓死」は戦死者の6割に達するという意見もあります。), また、移動中の輸送船撃沈による海没死が40万人と推定され、輸送船船員の死者は6万人におよぶといわれています。, 内地の人口統計を見ると、1936年までは毎年1.5%前後増加していたところ、37年以降は0.5%前後となり、戦争による犠牲者発生の影響が明確にみられます。ついでに、1943年の人口は7390万人ですが、2年後の1945年の人口は7260万人、すなわち2年で130万人が減少するという異常値も。, ちなみに、民間人犠牲者の大部分と戦死者の約3分の1は、サイパン陥落から敗戦までの約1年強に生じており、仮にサイパン陥落時点で降伏できていたなら、死者は約半分、民間人犠牲者も極小数にとどまっていただろうという指摘もあります。, 工場やその生産設備、船舶、航空機、鉄道車両、ビル、学校など、日本の国富は敗戦時の時価換算で4分の1が失われました。, ちなみに、この時期の軍事費は約7560億円、同時期の国民総生産の3分の1から半分に相当し、現在の貨幣価値に換算すると2268兆円に達します。, 冒頭で述べた通り、上記の犠牲者数、損失は日本のみとなっております。アジア戦域での日本人以外の犠牲者数の正確な数はわかりませんが、各国推計を合計すると1900万人となります。富の損失についてはもはや算定しようもありません。, 近年は、またぞろ日本の戦争責任についての議論が目につくのですが*3、海外に対する戦争責任だけでなく、日本国民に対する日本国政府の戦争責任についても、もっと議論すべきじゃないかなあ、などと愚考するしだい。最近、同じことばかり言っててなんですが。あと、一億総懺悔とかふざけるなと思いました。おしまい。, //