じりつつも、インディオの伝統を引き継ぐアルゼンチンの食文化は、一言では表わすことのできない魅力がたくさん詰まっています。, マタンブレ(詰め物入り牛肉ロール), ドルセ・デ・レチェ(濃厚ミルクジャム). ウルグアイ東方共和国(ウルグアイとうほうきょうわこく、スペイン語: República Oriental del Uruguay)、通称ウルグアイは、南アメリカ南東部に位置する共和制国家である。首都はモンテビデオ。北と東にブラジルと、西にアルゼンチンと国境を接しており、南は大西洋に面している。スリナムに続いて南アメリカ大陸で二番目に面積が小さい国であり、コーノ・スールの一部を占める。, 面積や総人口は南米の国家としては小規模だが、チリに続いてラテンアメリカで二番目に生活水準が安定しているとされ、政治や労働は南米で最高度の自由を保っているとされるが、近年、銃器を使用した強盗が年々増加するなど治安が悪化している。[要出典], 正式名称はスペイン語で、República Oriental del Uruguay(レプブリカ・オリエンタル・デル・ウルグアイ)。通称、Uruguay [uɾuˈɣwai̯] ( 音声ファイル)(ウルグアイ)。, 英語の公式表記は、Oriental Republic of Uruguay(オリエンタル・リパブリック・オヴ・ウラグアイ(ユラグアイ))。通称、Uruguay [ˈjʊərəɡwaɪ]。, 日本語の表記は、ウルグアイ東方共和国。通常、ウルグアイと表記され、ウルグァイとされることもある。漢字表記は宇柳貝または宇柳具となる。, 国名は西部を流れるウルグアイ川に由来し、その原義はグアラニー語で「uru(ウルという鳥の)gua(飛ぶ)y(川)」とされる。正式国名の「東方」は同川東岸地域をかつてバンダ・オリエンタル(東方州)と呼んだことに由来する。, 現在のウルグアイに当たる場所にはヨーロッパ人の到達直前には、約5,000人程の先住民がいたと推測されており、タワンティン・スウユ(インカ帝国)の権威がこの地には及ばなかったため、モンゴロイドのチャルーア人とグアラニー人をはじめとするインディオの諸集団が、狩猟や原始的な農耕を営みながら生計を立てていた。, 1516年にスペイン人フアン・ディアス・デ・ソリスがここを探検。1520年にはフェルディナンド・マゼランがラ・プラタ川を遡上。その航海の中で、現在のモンテビデオに当たる地域にあった140m程の小高い丘を見た時に発した「山を見たり!(Monte Vide Eu!)」というポルトガル語が首都の名前の由来であるという説がある(名前の由来については他の説もある)。, 平坦な丘陵が続き、特に鉱山資源もないこの土地は殖民が遅れたが、放牧された牛、馬、羊が大繁殖するといつの間にかガウチョが住むようになり、家畜を取り合ってスペインとポルトガルの争いが始まった。1680年にポルトガルがコロニア・デル・サクラメントを建設すると、スペインが追随して1726年にモンテビデオを建設した。こうしてこの地は両国の係争地になったが最終的にはスペインの植民地となり、「ウルグアイ川東岸地帯(Banda Oriental del Uruguay,バンダ・オリエンタル)」と呼ばれるようになった。その後、両国の戦争と、1750年代のイエズス会追放によるグアラニー戦争(英語版)で先住民グアラニー人がパラグアイに撤退した。1776年にリオ・デ・ラ・プラタ副王領が創設されると、モンテビデオはブエノスアイレスに続く第二の港として発展した。, フランス革命以降、ヨーロッパで続いたナポレオン戦争により、ナポレオン・ボナパルトの指導するフランスとスペインが同盟を結び、イギリスと戦うことになると、イギリスはラ・プラタ地方に目をつけ、1806年にブエノスアイレスに侵攻し、また、同年モンテビデオを占領する。ホセ・アルティーガス(英語版)はこのイギリス軍の侵攻に対して民兵隊を率いてあたり、1807年にブエノスアイレスでポルテーニョ(英語版)民兵隊に敗れたイギリス軍はモンテビデオからも撤退した。翌1808年フランス軍がスペインに侵入し、ナポレオンは自身の兄ジョゼフをスペイン王ホセ1世として即位させた。それに反発する住民が蜂起し、スペイン独立戦争が勃発すると、インディアス植民地は偽王への忠誠を拒否し、各地でクリオージョ達による自治、独立運動が進んだ。, 1810年5月25日、ブエノスアイレスでの五月革命が勃発し、ポルテーニョ(英語版)達がラ・プラタ副王を追放すると、1811年から共和主義者で連邦派のカウディージョホセ・アルティーガス(英語版)によりスペインに対する独立戦争が始まった。1811年にブエノスアイレスと呼応してラス・ピエドラスの戦いでスペイン軍を破った後、アルティーガスはバンダ・オリエンタルを東方州に組織し直し、連邦同盟を結成して、貿易の独占を求めるブエノスアイレスの中央集権派と戦うが、1816年にブラジルからポルトガル軍が侵攻し全土を占領する。アルティーガスによるゲリラ的な抵抗は続いたが、1820年にアルティーガスは最終的な敗北を喫してパラグアイに亡命した。その後バンダ・オリエンタルはブラジルに併合され「シスプラチナ州(「ラ・プラタ河手前の州」の意)」と改称された。しかし、東方州からの亡命者や、連邦同盟に属していたラ・プラタ連合州のリトラル諸州の連邦派の間に東方州の奪還を求める声が上がり、ブエノスアイレスの政府もその声を無視することは出来なくなっていった。, ブラジル帝国とラ・プラタ連合州(英語版)とのシスプラティーナ戦争の係争地帯になったバンダ・オリエンタルに、1825年、ラ・プラタ連合州に亡命していた、かつてアルティーガスの副官だったフアン・アントニオ・ラバジェハ(英語版)将軍が33人の東方人を率いて上陸し、ブラジルからの独立とラ・プラタ連合州への再編入を求めて再び独立戦争を開始する。この500日戦争ではラ・プラタ連合州は連邦派(en)、統一派(en)などの立場の違いを乗り越えてこれを支援し、ラバジェハ将軍は多くの人々の支持を集め、戦況はラ・プラタ連合州有利に進んだ。, しかし、戦争中に国内政策を誤ったベルナルディーノ・リバダビア(英語版)大統領が失脚すると、以降大統領職は空位となり、連邦派のブエノスアイレス州知事マヌエル・ドレーゴ(英語版)がその後の戦争指導に当たった。しかし、指導力の低下は隠し難く、アルゼンチンは有利な戦況を講和に生かすことが出来なかった。この結果1828年8月27日、アルゼンチンの勢力が伸張することを望まないイギリスの仲介により、ブラジルとアルゼンチンの間でモンテビデオ条約が結ばれ、バンダ・オリエンタルは「ウルグアイ東方共和国」として独立を果たした。長年にわたる戦争の惨禍により、独立時にはわずか74,000人の人口しか残っていなかった。また、この独立直後の1831年に初代大統領のフルクトゥオソ・リベラ(英語版)の甥が北部にわずかに生き残っていたチャルーア人を襲撃し、民族集団としてのチャルーアは絶滅した。, 独立後は1839年にリベラ政権によるアルゼンチンへの宣戦布告により、大戦争がはじまった。アルゼンチンと結んだ元大統領のマヌエル・オリベ(英語版)がモンテビデオを包囲するも、最終的にフスト・ホセ・デ・ウルキーサ(英語版)の寝返りにより、大戦争は1852年にアルゼンチンでフアン・マヌエル・デ・ロサスが失脚することにより幕を閉じるが、このような争いに代表されるように、ブラジルとアルゼンチンとの対立の中で、両国の力関係次第でコロラド党(自由主義派、親ブラジル派)とブランコ党(保守派)が対立しあう政情不安が続いていた。, しかし、両党の内戦の結果の末に起きたパラグアイとの三国同盟戦争が終わると、緩衝国家の必要性を痛感したアルゼンチン、ブラジル両国の政策転換により、ウルグアイへの内政干渉が和らぎ、その後多くの移民がヨーロッパから渡来すると、有刺鉄線の普及による19世紀後半の畜産業の発展と、鉄道網の拡大により経済は繁栄した。政治的にはコロラド党・ブランコ党の二大政党制が定着したかに見えたが、安定には程遠く、しばしば両党が軍を率いての内戦になった。, 20世紀に入り、最後となった内戦に勝利した、コロラド党のホセ・バッジェ・イ・オルドーニェス大統領によって、スイスをモデルにした社会経済改革が行われ、ウルグアイは南米で唯一の福祉国家となった。この後ウルグアイは南米でチリと並んで安定した民主主義国家として発展することになる。1929年にバッジェ大統領が死去する頃にはウルグアイは南米で最も安定した民主主義国となっていたものの、バッジェの改革は経済構造にまでは手がつけられなかったため、後に大きな禍根を残すことになる。, バッジェは福祉国家を築き、ウルグアイは「南米のスイス」と呼ばれたが[2]、バッジェの死後の1930年代に重工業化には失敗し、大土地所有制度にも手が付けられず、牧畜産業主体の経済構造を変えることができなかった。それでも第二次世界大戦、朝鮮戦争の頃まで体制は安定していたが、1955年を境に輸出の激減と経済の衰退が進行した。, 1955年から主要産業であった畜産業の低迷により経済が停滞すると、次第に政情は不安定になり、1966年には大土地所有制の解体などを求めて南米最強と呼ばれた都市ゲリラ、トゥパマロスが跋扈した。このような情勢の中で、1951年に一度廃止された大統領制は対ゲリラ指導力強化のために1967年に再び導入された。トゥパマロスと治安組織の抗争が進む中、1971年の大統領選挙で左翼系の拡大戦線が敗北すると、トゥパマロスの攻撃はさらに激化したが、政府は内戦状態を宣言してトゥパマロスを鎮圧した。しかし、内戦を軍部に頼って終結させたことにより、軍部の発言力の強化が進むことにもなった。, トゥパマロスの攻勢が収まると功績があった軍部が政治介入を進めた。1973年のクーデターにより軍部は政治の実権を握り、「南米のスイス」とも称された民主主義国ウルグアイにもブラジル型の官僚主義的権威主義体制が導入された。1976年にはアパリシオ・メンデス(英語版)が大統領に就任し、ミルトン・フリードマンの影響[要出典]を受けた新自由主義的な政策の下で経済を回復させようとしたが、一方で労働人口の1/5が治安組織の要員という異常な警察国家体制による、左翼系、あるいは全く政治活動に関係のない市民への弾圧が進んだ。1981年に軍部は軍の政治介入を合法化する憲法改正を実行しようとしたが、この体制は国民投票により否決され、ウルグアイは再び民主化の道を歩むことになった。, 1985年の民政移管によりコロラド党のフリオ・マリア・サンギネッティが大統領になったが、経済は安定しなかった。1990年代にはメルコスールに加盟した。2005年に拡大戦線からタバレ・バスケスが勝利すると、ウルグアイ初の左派政権が誕生し[2]、同国の二大政党制は終焉した。バスケス政権は経済の再生と、メルコスールとの関係強化などに取り組み、現在は再び民主主義国家として小国ながらも存在感を見せている。, 2010年3月1日、バスケス政権の政策継続を掲げた、元極左ゲリラトゥパマロス指導者で元農牧・水産相のホセ・ムヒカが大統領に就任した。2015年3月1日、バスケスが、再び大統領に就任した。2020年から、中道右派・国民党のルイス・ラカジェ・ポーが大統領に就任した。, 国際連合、米州機構、ラテンアメリカ統合連合、メルコスール、ラテンアメリカ・カリブ諸国共同体の加盟国。ラテンアメリカ統合連合とメルコスールはモンテビデオに事務局がある。, 立憲共和制であり、現在は大統領が国家元首となっている。また、過去に導入された執政委員会制度への反省から1967年憲法は大統領に大きな権限を与えている。大統領の任期は5年であり、副大統領と組で選挙によって選出される。なお、大統領の再任は禁止となっている。, トランスペアレンシー・インターナショナル(TI)による2018年度の腐敗認識指数ランキングでは23位[3]とラテンアメリカ第一位であり、域内では腐敗しておらず、比較的しっかりした法治国家だと認識されている[4]。, チリと並んでラテン・アメリカでも伝統ある民主主義国家であり、バッジェが現れてからはラテン・アメリカの混乱の中で安定した民主主義と高度な福祉を維持したことにより、一時期は南米のスイスとも呼ばれた。第二次世界大戦後はスイスの制度を参考にバッジェの構想した複数行政制度が1952年憲法で完成し、大統領制は廃止され、9人からなる執政官による執政評議会制度が完成した。世界でも珍しい政治体制により、ウルグアイ人は自らの国を「民主主義の実験室」と呼んだが、1960年代に都市ゲリラトゥパマロスの攻撃が進むと、ゲリラ戦に迅速に対処するために1967年憲法で再び大統領制が導入された。, 1973年に、戒厳令を敷いた軍部によってトゥパマロスが鎮圧されると、鎮圧の功績によって発言力を拡大した軍部は政治に介入し、1973年には事実上の軍政が敷かれた。これによりウルグアイにもブラジル型の官僚主義的権威主義体制と呼ばれる軍事政権が誕生すると、諸外国には同時期のチリ・クーデターと同様の驚きをもって迎えられた。しかし、ウルグアイ人の民主主義への意識は強く、1981年に軍政の合法化を意図して行われた国民投票は否決され、1985年に軍政は民政移管されることになった。, 2004年10月31日に実施された2004年ウルグアイ大統領選挙(スペイン語版)で、社会党、共産党を含む20以上の左翼・中道勢力を結集した拡大戦線(進歩会議・拡大戦線・新多数派)のタバレ・バスケス候補が、与党である国民党(ブランコ党)のホルヘ・ララニャガ(Jorge Larrañaga)候補を抑え当選した。それにより1852年以来の、コロラド党、国民党という親米保守の二大政党による独占支配に終止符が打たれた。, 2009年10月末に行われた大統領選挙の最上位2人が候補である決定選挙[5]が11月29日に行われ「拡大戦線」のホセ・ムヒカ上院議員が保守野党・国民党のラカジェ元大統領を破って当選した[6]。ムヒカは、バスケス政権[7]の政策を継承すると強調し、税金の累進制の強化や奨学金の充実など国民生活支援を続けると公約した。ダニロ・アストリが副大統領に就任し、大統領就任式には中南米の7人の首脳のほか、米国のヒラリー・クリントン国務長官が参列している[8]。ムヒカ大統領は就任直後から精力的な外交活動を展開、11日にはチリのセバスティアン・ピニェラ新大統領の就任式に出席、12日から14日までボリビアのエボ・モラレス大統領と資源問題を含む両国の関係強化に向けて会談した。, 志願制で、陸海空の3軍を併せて約23,500人の兵員から構成され、2007年時点でおよそ2,500人程の兵員がコンゴ民主共和国及びハイチを中心に合わせて12のPKOに従事している。1960年代以前はラ・プラタ川の洪水時に出動する程度の任務しかなかった軍の政治力は余り強くなかったが、70年代にトゥパマロスと交戦、これを鎮圧したことを期に政治介入が進み軍政となったが、80年代の民政移管以降はその政治的影響力は低下しているとされる。, ウルグアイは19県で構成される(スペイン語でdepartamentos、単数形の場合departamento)。, 国内第二都市のサルトでも人口は約10万人程度であり、極端なモンテビデオ一極集中である。, ウルグアイは南アメリカ大陸で2番目に面積が小さな国であり、パンパの国ゆえに国土のおよそ88%を可耕地が占め、ほとんどの土地は平らな荒れ地と、緩やかな丘の風景が広がっている。また、海岸近くには肥沃な耕作地帯が広がる。国土はネグロ川を境に南北に分けられ、北部のブラジル国境付近ではそのままブラジル高原に続くために標高が多少高くなっている。森林は約90万haしかなく国土の5%に過ぎない[9]。そのため天然林は伐採禁止である[9]。, 国土の多くは草原となっており馬や牛や羊が飼育されている。野生動物にはカピバラやダチョウに良く似たニャンドゥなどがいる。, ウルグアイには高山はなく、国内で最も高い山は標高 513.66 m (1,685.2 ft) のカテドラル山である。, ブラジル、アルゼンチンと国境を接し、北西部のアルゼンチンとの国境地帯のサルト県には温泉があり、アルゼンチンから湯治客がやってくる。ブラジルとの国境のロチャ県には大湿原が広がる。ブラジル国境付近のリベラ(ブラジル側のサンタナ・ド・リブラメントとの双子都市)の人々にはポルトゥニョール・リヴェレンセ (Portuñol)と呼ばれる、スペイン語とポルトガル語が混ざった言葉を話す人々がいる。, ケッペンの気候区分では温暖湿潤気候に属する。季節風を遮る高山がないので冬は南極からの冷風の影響を、夏はブラジルからの熱風の影響を強く受ける。モンテビデオでは一年を通じて穏やかな気候が続く。, 6月が最も寒く、1月が最も暑い。一年を通して毎月大体同じ量の雨が降るが、特に秋には多くなる。また、夏はしばしば雷雨が吹き荒れる。冬に雪が降ることはまれである。, 1984年からウルグアイは南極のキング・ジョージ島にヘネラル・アルティーガス観測所を設けている。, IMFの推計によると、2013年のウルグアイのGDPは約557億ドルである。一方、一人当たりのGDPでは16,421ドルとなり、これは世界平均の1.5倍を超え、南米では最も高い水準である。[10] アルゼンチンの食文化 . 南米大陸にあるアルゼンチンは、ラテン・アメリカ諸国の中でも、ヨーロッパの文化を色濃く持ち合わせている国として有名です。今回は、そんなアルゼンチンの代表的な料理とスイーツをまと … アルゼンチンの国民食「チョリパン」を食べたことはあるか? 2020.02.13; 連載 : アルゼンチンを巡る冒険。 肉の国アルゼンチンの国民的スナック、チョリパン。肉汁が溢れ出すチョリソーをカリッと焼いたパンで挟んで、お行儀は気にせず、かぶり付く。 主な昼食。食文化はスペインからよりもイタリア系移民の影響を強く受けているように思います。 まるで「ヴァンパイア」!? アルゼンチン人の睡眠スタイル. アルゼンチンのチョリパンは、牛肉と豚肉からできたソーセージをグリルで焼き、真ん中で切手ロールパンに挟む 。 半分の長さに切る場合があり、後者については「蝶」という意味のマリポーサと呼ばれる。 アルゼンチンの典型的な朝食は、バタ-をたっぷり塗ったト-ストとフル-ツ、それにカフェ・オレです。パンにドゥルセ・デ・レチェというミルクジャムを塗って食べる人もいます。このジャムは、日本のキャラメルに似た味で、アルゼンチン人なら皆大好きです。, お昼は1時から2時30分の間にだいたい1時間くらいかけて食べます。ステ-キとサラダ、または牛肉のカツレツとフライド・ポテトがもっとも一般的な昼食です。パスタ、ピザといったイタリア料理をお昼に食べる人もたくさんいます。, アルゼンチン料理にか欠かせないのが牛肉です。アルゼンチンでは、牛は放牧されていて、自然の牧草を食べて育っているので、無駄な脂肪がなく、肉本来の味わいのあるおいしい牛肉をとても安く食べることができます。普通、家で食べる牛肉は100g40円くらいです。おいしい肉を買おうと思ったら、100g80円くらいです。, 夕食の時間は、日本に比べ遅く、10時頃なので、昼食の後、6時頃におやつを食べる人もいます。レストランに行く場合は、9時過ぎに予約していくのが一般的で、10時をまわるとお店は混んできます。子供連れで食事に来ている人々も大勢います。日本では7時頃にレストランに行くことが多いと思いますが、アルゼンチンではその時間にはまだレストランは開いていません。アルゼンチンの夜はとても長いのです。, 一般的な夕食は、肉料理が中心で、あまり魚は食べません。ただし、最近ではタイ、ベトナム、メキシコなどエスニック料理が人気で、魚は健康によいと考えて食べる人が増えつつあります。日本食もブ-ムなので、寿司、お刺身を食べる人も増えています。, アルゼンチンでは、今でも日曜日のお昼に家族で食事をする習慣を守っている人々が大勢います。手作りのパスタ、ピザを食べながらおしゃべりを楽しみます。また、友人を家に招いてアサードというアルゼンチン・スタイルのバ-ベキュ-をすることもあります。, アルゼンチンの食生活を説明する時に、イタリア料理が頻繁に登場するのは、アルゼンチンの人口の約80%がイタリア、スペイン系の人々だからです。イタリア系の人々の影響は、食生活のみならず、生活一般にも浸透しています。, アルゼンチンは、他のラテンアメリカ諸国に比べて先住民の比率がとても低く、また、メスティーソと呼ばれる先住民とヨーロッパ系の人々との混血が少ないのもアルゼンチンの特色です。アルゼンチン人にとって、イタリア料理は食生活の一部となっているので、特にイタリア料理と意識することはありません。ですから、「イタリア料理を食べに行こう」 という言い方はしません。しかし、スペイン料理については、アルゼンチン料理とは区別しており、 「スペイン料理を食べに行こう」と言います。, 「ドゥルセ・デ・レーチェ(DULCE DE LECHE)」は、「SWEET OF MILK (ミルクのお菓子)」に当たるスペイン語で、ミルクをキャラメル化するまで煮詰めたものです。南米ではポピュラーな嗜好品で、パンやクラッカーなどにつけたり、お菓子に使用したり、と日常的に消費されています。, 最近の日本ではアイスクリームのフレーバーとしても人気で、これはもともとアルゼンチン市場向けに開発されたものでしたが、米国でも大ヒットし、ニューヨークタイムズ誌・ビジネスウィーク誌などに取り上げられました。, ドゥルセ・デ・レーチェ(Dulce de Leche)の起こりに関しては、諸説様々あるところですが、ここでは最も一般的に言われているものをご紹介します。, それは、1829年7月17日の朝のこと、首都ブエノス・アイレスから65km離れたカニュエラス(Cañuelas)での出来事。フアン・ラバージェ(Juan Lavalle) 将軍とフアン・マヌエル・デ・ロサス (Juan Manuel de Rosas) は終わりの見えない派閥闘争に終止符を打とうと、協定合意の為に会うことになりました。ラバージェ将軍がロサスのキャンプ地に着いた時、ロサスは外出から戻っていませんでした。そこで、ラバージェ将軍は親族でもあり政敵でもある彼のベッドに横になり、そうしていつしか深く眠ってしまいました。その時ちょうどロサスの部屋の脇にいた召使は、ご主人様がマテ茶に入れて飲むレチャーダ(lecheda、牛乳に砂糖を加えたもの)を弱い火にかけて温めていましたが、ご主人様のベッドに横たわる無礼な敵を見て驚き、急いでその男をベッドからどけようと、見張りにこのことを知らせに走りました。その間、レチャーダはずっと火にかけられたままで、ぐつぐつと煮立ったままゆっくりと少しずつ焦げていきました。一方でキャンプの人々がわいわいと騒いでいるその時、ロサスがちょうど帰ってきました。そしてその様子を見ると、怒る代わりに疲れているであろうと戦士を休ませておくよう命じました。翌朝になってラバージェが目覚めてみると、レチャーダは既に茶色いどろどろのクリームのようになっているのを発見しました。それを誰が最初に試してみたのかは分かりません。レチャーダとしては失敗作です。が、とにかく食べてみたらとてもまろやかで美味しいものでした。これがドゥルセ・デ・レーチェの最初です。, このお話は、双方の将軍が「レチャーダの失敗作」を仲良く食べながら、政治に関するあらゆる論議を交わした、というところで終わります。その後、このドゥルセ・デ・レーチェは、広くアルゼンチンの食卓になくてはならないものとして受け入れられました。, アルゼンチンでよく飲まれるお茶は、マテ茶です。味は少し日本茶に似て渋いですが、とても身体にいいお茶です。, もともとインディオたちが自生していたマテを薬として用いていました。インディオたちは、この葉を「素晴らしい葉」Kaa-guazuと呼んでいました。, 17世紀、スペインの植民地時代に、ミシオネス州に住んでいたイエズス会の修道士たちがこの葉の成分に注目し、インディオの助けをかりて、栽培を始め、今ではアルゼンチンだけでなく、広くラテンアメリカで愛飲されています。マテ茶には、脳と心臓の働きを活性化する作用があります。人種構成の多様なアルゼンチンにおいて、マテ茶はアルゼンチンらしさを示す象徴的な存在です。, 時代を超え、ヨ-ロッパからの影響に左右されず伝統として残ったマテ茶は、アルゼンチン人にとって、正真正銘のインディオから受け継いだ文化的遺産なのです。, マテ茶は、ひとりで飲むことも、グル-プでまわし飲みすることもあります。アルゼンチン人では、家にお客様を迎える場合、マテ茶をふるまう習慣があります。マテ茶は歓迎の儀式なのです。マテ茶を共に回し飲みすることで、そのグル-プの一員として認められたことになるのです。, マテ茶を飲むときに使う容器を、マテといいます。昔は、マテ茶を飲むときに、よく乾燥させたひょうたんを使いました。現代では、地域によってひょうたん以外に牛の角、木、ほうろう引きでできた容器が使われています。マテ茶を飲む時は、ボンビ-ジャという金属製で先端が茶漉しの役割を果たすストロ-のようなものを使います。, 2-14-14 Moto Azabu, Minato-ku - Tokyo - Postal code: 106-0046, Contacto: Marco Diego Estevanes - hkq@cancilleria.gob.ar, Representaciones Argentinas en el Exterior. 新型コロナウイルス関連の投稿は当分の間厳禁といたします。詳しくはこちらをご覧ください。, https://wiki.chakuriki.net/index.php?title=アルゼンチン&oldid=1565624, ボカ・ジュニアーズファンはほんの1年しか在籍しなかったマラドーナがOB面するのを白い目で見ている(リケルメを代表追放してますますその傾向が強くなった)。, そのためサッカーでイングランド等と対戦して負けたときはこれでもかと言うほど落ち込む。, でも、クレスポやテベスとか、普通にイギリスのリーグで活躍しているアルゼンチン人もいる。, 南極条約に加盟しているため、主張する南極地域に他国人が出入りすることは黙認しているが、その一方移住者を送り込むなど実行支配に努めている。, 南ヨーロッパからアルゼンチンへ「出稼ぎ」していたって所に昔のアルゼンチンの地位を見る, アルゼンチンは対外的にろくな輸出産業がないのに米ドル=ペソのレート固定とかやらかした。売るモノがないのに買い物だけは一人前。借金を重ねて「返すアテがあんのかてめぇ」と迫られて「返さねぇよ~ん」と言い放って国ごと差し押さえ。日本も政府の借金は多いが状況は違う。, 何年か前、日本の某市の農協が資産運用でアルゼンチン国債を買ってたら債務不履行(=踏み倒し)をくらい、大損して大問題になった。, で、アルゼンチンで作曲。その為「ラ・クンパルシータは我が国の音楽だ!」論争が両国間で起きている(どちらの国でも知らない人間は国民じゃない、と呼ばれるほどの超メジャー曲), 二つの世界大戦に巻き込まれなかったので、実は1950年代まで先進国だった。しかし現在、その事実を知る者はアルゼンチン人しかいない。, アルゼンチンタンゴのあの音は、アコーディオンではなく「バンドネオン」。12モンキーズのタイトル曲もバンドネオンで演奏されています。, タンゴが国楽(?)。アストル・ピアソラがタンゴに革命を起こし世界中を虜にしたが、あまりに革命的すぎて祖国では, ちなみにピアソラはアルゼンチンべったりじゃなくニューヨーク育ちの帰国子女。それもあって一時はタンゴなんて古くてもう嫌だと言っていたのだが、俺が新しくすればええやんと気付いてから快進撃。, いまでもエビータのことを「聖母」みたいに慕う人が多く、「あんなあばずれ女(マドンナ)がエビータを演じるなんて許せない! アルゼンチンの文化的特徴を一つ挙げるとすれば、それはヨーロッパに起源を持つ文化を中心にしながらも、もともと現地にいた先住民達や非ヨーロッパ系の移民による文化が内包された多文化社会だってこと。 19世紀前半ばには純粋な白人と呼ばれる人の人口割合は10%にも満たない状況でしたが、19世紀半ばから「国家の西欧化」としてヨーロッパからの移民を大量に受け入れる政策を推し進めた結果、現在はヨーロッパ系の住 … アルゼンチンの食生活. 牛の丸焼きが名物。 何かと理由を付けて祝いの丸焼きを作ろうとする; 下手すると穀物より牛肉が安い 牛肉は「グラム」ではなく「キログラム」単位で売ってる。一番手ごろな食品なので年中そればっか食べてる。 正解。 アルゼンチン人から見て、日本人の方が行うことでマナーにかなっていなくて顔をしかめられたりすることがありますので、ちょっとお耳に入れておきたいと思いました。 !」と激怒したらしい。, そんなことは無いだろう。アルゼンチンの馬と日本の地方競馬の馬ではどう考えても、日本の地方競馬の馬のほうが強いだろう・・・。多分、アルゼンチンの馬はハルウララより弱いと思うぞ。, 馬の強さではなく国際格付け。今でこそ同じグループI国だが、日本は21世紀になって鎖国を解いていき2007年になってやっとだったが、アルゼンチンはずっと前からグループI国。, ウスアイアは最暖月は摂氏10度以下なのに最寒月が摂氏氷点下3度以上。故にツンドラ気候に入れるか西岸海洋性気候に入れるか迷う所。, ウスアイアはオゾンホールの下にあるそうで、住民がみんなサングラス着用。紫外線で目をやられるらしい。羊はみんな真っ赤な目をしていて、失明しているとのことだった。, 南米インディアン虐殺三兄弟の長兄。アメリカなどとは比較にならないほど派手にお掃除した。きれいきれい。, ヨーロッパからの移民の混血が多いので、若い女性には凄い美形が多くいる。 欧米人の常で年配になると美形率急降下するが。, ラグビーも強い。今では南半球3強(ニュージーランド・オーストラリア・南アフリカ)と肩を並べる。, バンダ・オリエンタルをめぐってアルゼンチンはブラジルと100年近く前に戦争があった。, バンダ・オリエンタルは今のウルグアイのこと。独立した今もアルゼンチンとは仲が悪く、ブラジルと仲良しらしい。, まあ隣国同士互いにライバルと思ってるからでしょう。イギリスVSフランス、トルコVSギリシャみたいなものかな。, アルゼンチンでは韓国人犯罪が多いので、韓国人が「追放したい民族第1位」に選ばれたことがある。, かつては牛肉の輸出が基幹産業であり、その事で世界でも有数の経済大国だった。人口の倍の数の牛を飼育してるとか。, 移民受け入れ国のアルゼンチンは高学歴者が留学し海外移民になったり、高学歴者の空洞化が懸念。, おもにアメリカ、カナダ、スペインへ移住。だからアメリカはヒスパニックがどんどん移住して来るんだ。, アルゼンチンのマルチタレント、アルフレッド・カセーロが「島唄」聞いて衝撃受け、作者に無断で、しかも日本語で歌った為。作者の宮沢和史(THE BOOMのボーカル)がアルゼンチンでコンサートやった。, イギリスが嫌いと言われているがスポーツではイギリスの影響をもろに受けている。(サッカー、ホッケー、テニス、競馬など), ちなみにマテ茶はビトミン・ミネラルが豊富に含まれており、「飲むサラダ」と言われている。, フォークランド紛争以前のアルゼンチンは他の中南米諸国から嫌われていた。理由は民族的にヨーロッパ系が多いので、その事で中南米(ブラジル除く)に対して優越感に浸っていたから。, 2013年、ブエノスアイレスの大司教がまさかのローマ教皇に選出され、アルゼンチン人みんな大喜び。史上初のラテンアメリカ出身の教皇となった。(両親はイタリア出身らしいが), 事前のブックメーカーの予想ではほぼ無印で、ブラジルの大司教が対抗レベルの有力候補と見られてたので、その意味でもアルゼンチン人は嬉しいかも。, というのは嘘で、スペイン語で「綺麗な空気」という意味だが、実際はスモッグが酷いことで有名。しかしちょっと町の中心部を離れれば綺麗な空気は吸える。, 30年前は350万人くらい居たのに現在は300万人も居ない・・・ドーナツ化現象?治安悪化?, でも都市圏人口は1200万超。全人口の四分の一以上がブエノスアイレス周辺に住んでいるという東京も真っ青な一極集中。, 街が建設された当初は「シウダ・デ・ラ・サンティシマ・トゥリニダド・イ・プエルト・デ・ヌエストゥラ・セニョラ・ラ・ビルヘン・マリア・デ・ロス・ブエノス・アイレス」というやたら長い名前だった。意味は「三位一体祭の都市と良い風に恵まれた聖母マリアの港」。, 牛肉は「グラム」ではなく「キログラム」単位で売ってる。一番手ごろな食品なので年中そればっか食べてる。.