そこに三人の兵士が武器を構えて上がってきます。 ちょっと血なまぐさい歴史の話はおしまい。 しかしマクタン島の部族長ラプ=ラプ王は、これを拒否。 イスラム教を奉じる部族の長であった彼は、フィリピンではじめて西洋人に抵抗します。 これに対し、征服者はキリスト教を布教していきます。 フィリピンの歴史(フィリピンのれきし)では、フィリピン共和国の歴史を述べる。フィリピン史は先スペイン期、スペイン植民地時代(1565年-1898年)、アメリカ合衆国植民地時代(1898年-1946年)、独立以後の時代(1946年-現在)に大別される。 彼はその強力な権力を用いて、フィリピンの経済基盤の強化を進めます。 よく作り、よく守ってきたと言いたくなります。, 青々とした稲がそよぎ、水のきらめきがあるその景色は、どこか日本の原風景にも似ています。 フィリピンの所得格差は非常に激しいことでも有名です。 フィリピンのマーケティングでは、所得層の5段階をA~Eの5段階に分けることが、よく行われています。, SWSの統計によると、富裕層と言われるA・Bクラスは、フィリピンの全世帯のなかのわずか1%に過ぎません。A・Bクラスの1年間の世帯収入が185万7千ペソですから、日本円に換算するとおよそ420万円です。, 中間層に位置するのがCクラスで、全世帯の9%を占めています。世帯収入60万3千ペソは、およそ188万円です。, Dクラスは、貧しいながらもなんとか生活ができる世帯です。実に全世帯の60%を占めており、フィリピンのほとんどの世帯は、ここに属していることがわかります。世帯収入19万1千ペソは、およそ44万円です。, Eクラスは、いわゆる最貧困層です。世帯収入6万2千ペソは、およそ14万円です。月収にすれば1万円ちょっとです。さすがにこの収入では、食べていけるかどうかぎりぎりです。, フィリピンの物価が日本と比べて安いことはたしかですが、すべてが安いわけではありません。たとえば電気料は、フィリピンのほうが日本よりも高くなっています。, 物価が安ければ収入が低くても暮らしていけますが、それにも限度があります。日本人がフィリピンで、一人1万円ちょっとで衣食住のすべてをまかなえと言われたなら、おそらく無理でしょう。, まして、Eクラスの月収1万ちょっとは、一人で使える金額ではありません。家族全員がその金額で食べていくことになります。, フィリピンでの世帯の平均人数は5人ですが、貧困層の世帯になるほど人数が増える傾向にあります。貧困層の家庭では8人や10人を超えることも、珍しくありません。, こうしてデータを並べてみると、フィリピンにおける貧富の差がはっきりと見えてきます。, 富裕層と中間層をあわせても、全世帯の10%ほどです。残りの90%の世帯は、貧困層なのです。, では、ここで、entrepreneurに「100万ドル以上持っているフィリピン人は何人? スイスの銀行が試算」という記事が掲載されていましたので、こちらも翻訳して紹介しましょう。, 昨年暮れに発行されたクレディ・スイスのグローバル・ウエルス・データブック2016年度版報告書によると、100万ドル(4,970万ペソ)以上の資産を持つフィリピン人は、39,000人以下とのことです。, フィリピン人の成人人口は約6,000万のため、ミリオネアは0.06%しかいないことになります。, フィリピン人ミリオネアの割合は、近隣諸国や世界平均と比べても、とても少ない結果になっています。, アジア太平洋地域では、12億人のうち0.52%が、そして世界では48億人のうち0.68%がミリオネアです。, しかし、フィリピンはタイ(0.06%)やインドネシア(0.07%)など、ASEAN諸国と比べると同レベルの割合です。, フィリピンは急速な経済成長のおかげで、この6年間でミリオネア人口の割合が急激に増えました。2011年は18,000人、つまり総成人人口の0.03%しかいなかったミリオネアが、昨年は倍以上の38,838人に増えているのです。, しかし、ミリオネアの間にもさらに格差はあります。この約39,000人の百万長者のうち、1,000万ドル(11億5千万円)以上所有しているのは2,668人に過ぎず、1億ドル(115億円)以上となると193人しかいません。ビリオネア(10億ドル = 1,150億円以上)となるとその数は14に激減します。, 大多数のフィリピン人、つまり残りの87%は、金銭的・非金銭的な資産を含めても1万ドル以下の資産しか所有していないことになります。フィリピン人成人ひとりあたりの平均資産は $9,878(1,137,000円)ですが、これが中間値(中心的傾向を表すもう一つの指針)となるとさらに下がり、 $2,055(236,000円)になります。, この2つの数値に大きな開きがあるということは、不平等が蔓延していることのひとつのしるしとも言えます。, クレディ・スイスは、世帯の家計とその他の富の分配データから情報を収集して報告書をまとめています。報告書には、200か国以上のデータが含まれており、全ての収入レベルに及んでいます。, 参照元:http://www.entrepreneur.com.ph/news-and-events/how-many-filipinos-have-a-million-dollars-a-swiss-bank-tries-to-count-a1672-20170105?ref=home_featured_big, http://wetalkaboutbusiness.blogspot.com/2014/04/next-11-n-11-countries-introduction-to.html経済成長率だけを見れば、フィリピンはアジアでも抜群の成長率を誇っています。, 2000年代以降著しい経済発展を遂げているブラジル・ロシア・インド・中国の4ヶ国をBRICsと呼びますが、それらに次いで21世紀有数の経済大国に成長する高い潜在性があるとされる国をNEXT11と呼びます。, しかし、経済が成長しているにもかかわらず、フィリピンの場合、一般庶民の生活ぶりはちっとも向上していません。, 経済成長によって潤っているのは、わずか1%に過ぎない富裕層ばかりです。富める者はさらに富み、貧しい者はさらに貧しくなるのがフィリピンの現状です。, 貧富の差による不公平感は、entrepreneurの記事にもあったように、ここ数年でさらに加速しています。, なぜ、フィリピンではこのような貧富の差が生じているのでしょうか? 周辺諸国が経済的にフィリピンよりも発展し、貧富の差も縮まっているのに比べて、なぜフィリピンではちっとも貧富の差が解消されないのでしょうか?, http://www.ourknowledge.asia/blog-posts–articles/which-philippine-president-caused-the-downfall-of-the-philippines-economy, フィリピン経済はかつては「アジアの落ちこぼれ」ともいわれ、周辺諸国が経済的に発展していくなか、フィリピンだけが取り残されたように経済が停滞していました。, 経済成長はしているものの、現在も平均資産で比較すると、アジアの平均資産の21.3%に留まっており、依然として貧しさは際立っています。, しかし、フィリピンの経済は昔からずっと遅れをとっていたわけではありません。1960年代のフィリピンの1人当たり国民所得は、アジアで第何位だったと思いますか?, 今日のフィリピン経済からは信じられないかもしれませんが、アジアで第2位でした。日本に次ぐほどの強い経済力を、フィリピンはもっていたのです。, ところが、10年経つ頃には台湾と韓国に追い抜かれ、さらに10年経つとタイやマレーシアに抜かれ、1990年後半には中国にも抜かれてしまいました。, 2010年にはインドネシアにも抜かれ、現在に至ります。かつてはアジア期待の星と目されていた1960年代からは、想像もできない没落ぶりです。, ただし、1960年代も、今日とさほど変わらない貧富の差が存在していました。1人当たりの国民所得が高かったのは、少数の富裕層が莫大な収益を上げていたからです。, なぜ、当時から貧富の差が激しかったのかといえば、植民地時代の影響を受けていたからです。, http://philippinesreport.com/philippine-history/, フィリピンは1521年にマゼラン率いるスペイン艦隊がセブ島に上陸して以来、スペインの植民地でした。, フィリピンはスペインのアジア侵略の拠点となり、これより苦難の歴史を歩むことになります。, フィリピンの人々は激しい抵抗運動を繰り返しましたが、スペインの圧倒的な軍事力の前に為す術はありませんでした。, 急速に貨幣経済へと切り替わったことで、フィリピンの人々はなにもわからないまま借金を重ね、次々に土地と財産を没収されていきました。フィリピンの多くの人々は、事実上、スペイン人の奴隷となり、強制労働などで酷使されたのです。, 当時、フィリピンではたばこ・サトウキビ・マニラ麻などが主として生産されました。世界的に需要が拡大したため、それらの輸出作物は盛んに生産されるようになり、スペインを豊かな国へと変えていきました。, その際、フィリピンの人々をスペインにおとなしく従属するように広められたのがキリスト教のカトリックです。今でもフィリピンでは、国民の8割から9割がカトリック教徒です。, 輸出作物の大農場を所有していたのは、はじめの頃はカトリック教会や地方総督でした。輸出作物が盛んになるとともに、スペイン人入植者がこれに加わりました。, その結果、フィリピンの潤った大地はほとんどがカトリック教会・地方提督・スペイン人入植者・現地人支配層の持ち物となり、フィリピンの人々は小作人として、事実上の奴隷労働を強制されたのです。, 小作人の生活は重税に縛られており、収入はわずかなものでした。ほとんどの人々が、食べていけるかどうかというぎりぎりの貧困状態に追い込まれました。, http://www.slideshare.net/CarloPMarasigan/organic-laws-implemented-in-the-philippines-and-heroes, 380年に及ぶ長い歳月に渡り、フィリピンはスペインの植民地として利益をしぼり取られてきました。, その間も侵略者であるスペインへの抵抗は止むことがなく、繰り返されました。そのたびに多くのフィリピン人が、スペイン軍によって虐殺されていきました。, それでも、1898年にはフィリピンからスペイン軍を追い出すことに成功し、ついに念願の独立を勝ち取りました。しかし、スペインから2000万ドルでフィリピンを買い取ったアメリカは、フィリピンの独立を認めませんでした。, 独立を求めるフィリピンとアメリカの間で戦争が起き、少なく見積もっても20万人以上のフィリピン人がアメリカ軍に殺されたと、米議会にて報告されています。, 当時は欧米列強によるアフリカやアジアの植民地化が、当然のごとく行われていました。下の地図は、欧米の植民地になったことがある国を色分けした世界地図です。, http://www.newworldencyclopedia.org/entry/Colonialism, 青の部分が植民地になったことがある国、水色が半ば植民地化されていた地域、灰色が欧米の植民地になったことがない国です。, 地図を見れば欧米による植民地化が、アジアとアフリカのほぼ全土に渡って繰り広げられていたことがわかります。, 灰色の国はごくわずかです。アジアで事実上、植民地とならなかったのは、日本と日本が合併していた朝鮮と、タイのみです。, 白人による黄色人種や黒人に対する植民地支配には、激しい人種差別がまかり通っていました。, http://philippines1900.tumblr.com/post/264595846/education-as-a-colonial-tool, アメリカはスペインやフランス・イギリス・オランダなどが、アジアの植民地で暴虐な圧政を敷いたことで、占領政策に苦労していることを見ていたため、フィリピンに対しては他国に比べて穏やかな支配を行いました。, インフラが整備され、学校がフィリピン各地に建てられました。通常、植民地には愚民政策がとられることが多いなかで、植民地支配した国に教育を施すことは珍しい例です。, 愚民政策とは、原住民に教育を施さないようにするための政策です。たとえばオランダが植民地にしたインドネシアでは、基本的に現地人への教育が禁止されていました。, アメリカは教育により、スペイン統治下にフィリピン社会に根付いた貧富の差を解消しようと努めました。, 人々は,貴族階級の無軌道な統率と圧政に,生まれつき逆らうことなく身を任せている。スペイン人はこれを「ボス支配」と呼んだ。本諸島の政府はあらゆる手段と政策をもって,これを打破しなければならない。上記の必然的帰結として,我々の公立学校制度は大衆のためのものとなるべきである。, しかし、現実は異なりました。教育現場の思いとは裏腹にアメリカは、フィリピンにすでにできあがっていた支配の構造を、壊さないまま利用する政策をとりました。, 380年のスペイン支配の間に、スペイン人と地元民とは混血しました。彼らはメスティーソと呼ばれました。スペイン時代の終わりには、メスティーソを中心とする強い支配構造が、フィリピンを覆っていました。, この既存の支配構造を壊して新たな支配構造を作るとなると、時間もかかれば、激しい抵抗を武力で抑えつけなければならなくなります。, アメリカはこうした無駄を省き、すでにできあがった支配構造を利用しながら、自分たちの利益を得ようとしたのです。, こうしてアメリカは、スペイン統治下の支配構造をそのまま受け継ぎ、プランテーションと呼ばれる大規模農場経営をフィリピンで展開しました。, つまり、アメリカの植民地となっても、フィリピンに横たわる貧富の差は、まったく解消されなかったのです。, http://newsjunkiepost.com/2013/08/08/feudalism-and-colonialism-the-case-of-the-philippines/, スペインやアメリカがフィリピンなどの植民地で展開した農業を、アグリ・ビジネスと呼びます。アグリ・ビジネスとは、食品としてではなく、商品として農作物を扱う農業のことです。, プランテーションでは、低賃金労働が強いられました。もちろんフィリピン人には、これを拒否する自由はありました。しかし、人口があり余ったフィリピンでは、たとえ低賃金であっても仕事にありつけるだけましであり、働き手はいくらでもいました。, また、プランテーション内部には労働者向けの小売店が設けられており、労働者がそれを利用することで、給与の一部が土地所有者に戻っていく仕組みになっていました。, このような条件下では、プランテーションで働くフィリピン人がいつまでも貧困から抜け出せないのは、当然です。, キャパシティを超えて増え続ける人口の問題は、現在もフィリピンを苦しめています。カトリック教会の圧力に屈することなく、ドゥテルテ政権は避妊を広めようとしています。, フィリピン人の多くは、プランテーションでの低賃金労働に甘んじるか、土地所有者の小作人となってわずかばかりの収入を得るかの、どちらかを選ぶよりありませんでした。, アメリカの経済圏に組み入れられたフィリピンでは、プランテーションで産出された農作物が、中華系の企業を仲立ちとしてアメリカ本土のアグリビジネスへと送られました。, フィリピンの大地が生み出した利益は、スペイン系大地主と中華系商人が吸い上げ、アメリカのアグリビジネスを潤わせます。, スペイン系大地主と中華系商人の家系は現在、財閥となり、フィリピンの経済を支配しています。, 財閥や一部の地主が大規模な土地を所有している状態は、現在も続いています。フィリピンに中間層が育たない最大の原因は、土地を所有できないからです。, 1946年:マニラ条約に調印するトルーマン大統領http://thephilippinesamodernhistory.blogspot.com/, ここまで、フィリピンの貧富の差が、スペインとアメリカによる植民地支配によって構造的になされてきたことを紹介しました。, 植民地政策には多少の違いはあるものの、どのアジアの国でもさほど違いはありません。植民地での支配をたやすくするために、現地での支配層が生まれ、宗主国の人々による移民が行われ、その国の支配の構造が生まれます。, つまり、フィリピンばかりでなく周辺諸国にしても、欧米の植民地政策により強制的に貧富の格差を生む社会が作られたのです。, しかし、周辺諸国が次々と貧富の差を解消しているのに対して、フィリピンだけは取り残されたままです。その原因はどこにあるのでしょうか?, http://idreamofbali.com/blog/indonesian-independence-day/#.WItzPhuLSUk, その大きな原因として、独立後もフィリピンでは、アメリカの経済植民地としての状態が長く続いたことがあげられます。, そもそも独立に至る経過が、周辺諸国とフィリピンでは異なります。日本が戦争に敗れ、駐留していたアジア諸国から軍を引くと、旧宗主国の軍隊は再びアジア諸国を植民地にするために舞い戻ってきました。, しかし、日本軍が去ったあとのアジア諸国は、植民地として半ば奴隷のような待遇に甘んじていた頃とは明らかに違っていました。, たとえばインドネシアは日本が連合国に降伏した後に独立を宣言し、舞い戻ってきたオランダ軍と戦争に突入しました。インドネシアに残っていた日本兵の多くがインドネシアのために立ち上がり、インドネシア兵とともに戦いました。この戦争では一千名以上の日本兵が戦死しています。, 戦争は4年5ヶ月に及び、80万人以上のインドネシア人が犠牲になりました。そうして多くの血を流すことで、インドネシアは独立を果たしたのです。, アジア諸国は独立とともに、宗主国の支配を離れ、植民地時代に作られた支配構造を変えていきました。, ところがフィリピンは例外で、独立を達成したあともアメリカが事実上、フィリピンの経済に影響を与え続けました。, http://tagalogrepublic.blogspot.com/2009/11/us-grants-philippines-independence.html, アメリカがフィリピンを経済的に支配する礎となったのが、悪法として名高い「ベル通商法」です。これはフィリピンにとって、完璧な不平等条約でした。, ベル通商法には、アメリカ資本やアメリカ企業は、フィリピン全土の天然資源の開発を自由に行えること、公共事業を運営する際に、フィリピン人となにも変わらない平等の権利を認められること、28年間の特恵関税などが定められていました。, つまり、独立とは名ばかりで、実質的にはフィリピンは、アメリカの経済植民地として搾取(さくしゅ)され続けたのです。, スペイン系大地主と中華系商人による支配構造には、なにも変化はありませんでした。彼らはアメリカの企業と結びつき、蓄財に励みました。, その間、反米デモは何度か起きましたが、大きなうねりにはなりませんでした。今日ではドゥテルテ大統領の反米よりの暴言が話題になっていますが、それはなにもドゥテルテ大統領だけの特別な思いではありません。, ベル通商法は名前を変えながらも生き続け、その後フィリピンを30年近く縛り続けました。その名残は現在も、けして消えてはいません。, フィリピンのスモーキーマウンテン https://fan-interference.com/2015/12/29/baseball-in-the-philippines-the-smokey-mountain-field-of-dreams/, フィリピンの貧困をなくすための方法については、多くの経済学者の見解が一致しています。なによりも急がれるのは、農地の解放です。, 小作人でいる限り、農作物のほとんどを地主に収めなければいけません。ひどい地主になると、農作物の9割を奪われるため、小作人ではまともな暮らしを送ることはできません。, そのため、フィリピンの農民のなかには小作人をやめて、都会を目指して上京する人が増えました。そうした貧困者が、ゴミ捨て場に勝手にバラックを建てて住み着くようになったのです。, こうして、スモーキーマウンテンが作られました。日本のテレビでもたびたびその状況は紹介されています。, しかし、フィリピンでの農地改革は進んでいません。フィリピンの支配層である財閥は政治の世界にもすっかり根を下ろしています。, 地方も例外ではなく、財閥や地主の一族から政治家が生まれ、地方の政財界を牛耳っています。そこには貧困を是正するどころか、富めるものをさらに富ませ、貧しき者をさらに貧しくする構造が横たわっています。, 中央では農地改革を阻む勢力として財閥と政治家が結びつき、アメリカのアグリビジネスを行う企業と関係を深めています。両者の利害は一致しています。, 反アグリビジネスに身を投じた活動家や弁護士、その真実を暴こうとしたジャーナリストは、暗殺など不審な死を遂げるのがフィリピンの現実です。, http://www.trendingnewsportal.net.ph/2016/10/president-duterte-questions-rule-asking-funds-from-farmers-for-farm-tractions.html, 歴代大統領のなしえなかった農地改革への期待が、ドゥテルテ大統領に寄せられています。前アキノ大統領は地主の一族出身であり、農地改革には消極的でした。, 財閥や地主とはなんの関係ももたないドゥテルテ大統領であれば、思い切った農地改革ができるのではないかと、大いに期待されています。, ドゥテルテ大統領とマリアノ農地改革相は、大統領自身が委員長となる農地改革委員会(PARC)を、およそ10年ぶりに復活させました。, 農地改革法はマルコスが大統領だった時代に制定されましたが、実質的な成果をあげることはできませんでした。, マルコスが親族を優遇し、汚職がはびこったことはたしかですが、その一方でマルコスは独裁政権を敷くことで、財閥の力を強制的に剥がそうとしたことも事実です。 アメリカ植民地時代 当時は、フィリピン国内にて独立を目指し運動を起こす人がたくさんいたんです。アメリカはそこに目をつけ、フィリピンに独立の支援を約束し、見返りに戦争の協力をしてくれるように要請するんですね。 キリシタン大名と修道士の企画により、結成されたのが〈天正遣欧少年使節団〉。 というわけで、最後は、フィリピン圧巻の自然遺産〈海〉編です!, パワラン島沖、スールー海に〈トゥバタハ岩礁海中公園〉はあります。 このうちの一つが、ついに彼を失脚させます。, 40、50代以上の方では、まだ覚えている方もいらっしゃるのではないでしょうか。 American Imperialism and the Philippine War, Daniel Wertz, Wesleyan University, 2008. 1450年頃にパレンバンから来たアブ・バクル(英語版)がイスラム国家のスールー王国を建国した。いずれもスマトラからの有力移住者が地元の有力者と婚姻を結んでできた王朝である[19]:72。, 都市国家のひとつにマニラ王国(麻里魯)(英語版)(マレー語: Kota Seludong、ジャウィ文字: كوتا سلودوڠ)があった。明の時代には歴史的交流のあった同じ海洋国家のマライ人系商人[20]らを通じ、一部のルソンの人々はイスラム教を取り入れていた。, 15世紀頃の地図混一疆理歴代国都之図にはフィリピンの辺りに多くの島が描かれており、中に麻里魯と読める箇所がある[7]:9。, 1500年代初頭、ポルトガル人は、マラッカ王国を征服する前に立ち寄った中国とマラッカの間にある貿易国家を「ルソニア」(Luçonia)または「ルソン」(Luçon)と記している。, 日本の商人もルソンと交易した記録が残っていて、戦国時代に堺商人の納屋助左衛門が貿易商を営んで巨万の富を得た逸話は最も良く知られている。, また、使用開始時期は不明確だが、1603年のスペインの報告書によると、当時のフィリピンの一部ではバイバインと呼ばれる文字が存在していた[7]:59。, ビサヤ諸島にあった中継貿易で栄えたビサヤ族(英語版)の海洋国家である。 「いいぞ大統領、これまでみんな言わなかったことをどんどん言ってくれている!痛快だ!もっとやれ!」ということのようです。 「戦いを受けてたつ」, ときは1521年4月27日。 南蛮貿易の活発化によって、多くの日本人が海を越えていきます。 これぞ南国、青い空、広い海、さっぱりとした白い雲……という景色がフィリピンにはまだまだ残っているのです。 文字が記されている史料はもちろん、物的証拠とでも言うべき史料も発見が困難。 アメリカのお隣の島国・キューバでも独立運動が盛んに。 そこに日本は多額の経済支援をしていました。 彼らはポルトガル、スペイン、神聖ローマ帝国の皇帝などに熱烈な歓迎を受け、ローマ法王にも謁見しました。 : Asia & Japan Section 波乱のフィリピンの現代史をのぞいてみましょう。 では、実際に各世帯ごとの収入を具体的に比較してみましょう。民間調査機関のソーシャル・ウエザー・ステーション(SWS)が行ったデータを参照してみます。,  そのうちの一つ〈ビガン〉という街に赴任した日本人将校がいました。 事前のエントリーが必要ですので、旅の前によく調べてから行くと良いですよ。, いかがでしたか?マゼラン到来以降、フィリピンの歴史は植民地支配と苦難の連続でした。 非常に敬虔な信徒だった彼は地元の修道院に大歓迎されますが、過酷な船旅と老齢のため、到着からわずか40日後に病死します。 この戦争は凄惨な結果を生みました。 戦後日本は数々の援助をフィリピンに対して行ってきました。 16 (Tue.) 世界でも指折りのダイビングスポットです。 彼は憲兵隊長。 〈種子島鉄砲〉の到来、そしてフランシスコ・ザビエル来日以降、多くキリシタン大名が生まれ、キリスト教が日本で大ブーム。 東西に線を引いて、スペインとポルトガルの勢力バランスを定めました。, つまり世界を真っ二つに分けて、スペインとポルトガルが山分けするというもの。 鉄でまもられていない足を、銛(もり)で攻撃されて倒れるマゼラン軍。 ちょっとだけ、のぞいてみましょう。, 16世紀、ヨーロッパでは〈バロック様式〉が一大ムーブメント。 東南アジアではじめて西洋人に立ちむかった勇者です。, キリスト教到来以前、フィリピンで信仰を集めていたのはイスラム教でした。 海水が足を洗う浅瀬で船をおりるマゼラン。 ユネスコに登録されている、フィリピンの世界遺産は6つ。 高山右近はあっさりとすべての領地を返還。 フィリピンにとって日本は貿易相手国として、輸出国として第1位、輸入国として第3位。 彼はフィリピンのマニラで、その生涯を終えます。 作中では、フィリピンの修道院の情景が非常に真に迫った描写で描かれています。, 「スペインの植民地になったんでしょ?でもなんでフィリピンの人って英語ペラペラなの?」その答えは19世紀に起こった二つの戦争にあります。 その中でたくましく残った4つの教会は〈フィリピンのバロック様式教会群〉として世界遺産に登録されています。 とにかく考古学的史料が非常に少なく、専門家たちを悩ませ続けています。 1.アメリカ植民地期フィリピン 主には植民地教育について考えてきました。植民地支配とは、人種・エスニシティによる差別が貫徹し、立法権よりも行政的な権力が優位な統治体制です。また、社会改革や発展が主要なイデオロギーです。 悪いことばかりではありませんね。, スペインはじめ、西洋人がフィリピンに到来して以降、バリバリとキリスト教が入ってきます。 ここでは、ほんのわずかですが、フィリピンを訪れた歴史上の人物を紹介します。 中国の習近平国家主席との会談では、ガムをクチャクチャ、手はポケットというパフォーマンスをしたりもしました。 うち2つが〈パワラン島〉に集中しています。 ラウレル大統領たちは日本に亡命します。 この日は今も〈フィリピン独立記念日〉として人々に祝われています。, しかしアメリカは、スペイン軍降伏と同時に完全に手のひらを返します。 というよりも「神様が全部なんとかしてくれる」という、良い意味での丸投げ精神。 しかしそれは、文明のきゅうくつさを知らない生活だったに違いありません。 しかしこの〈第二共和国〉も、太平洋戦争終盤にアメリカ軍がフィリピンに再侵攻すると、〈第一共和国〉のときと同じく瓦解。 ここにダイブするのは世界中のダイバーのあこがれ。 堂々たるユネスコ登録の世界遺産です。 その後、フィリピンが真の独立を果たすのは太平洋戦争後まで待たなければなりません。, アメリカの統治下となったフィリピンでは、英語が普及。 市街戦、虐殺、ゲリラ戦……フィリピンの島々のいたるところで民間人が殺害され、両国の兵士が犠牲になりました。 フィリピン発展と統治におもに大きく関わったのは、キリスト教の修道会でした。 16世紀にスペイン人がやってきた折、彼らはフィリピンに多くのスペイン風の街を作りました。 このスクープはフィリピン全土のみならず世界中をかけめぐり、世論の高まりによって、マルコス大統領はハワイに亡命。 広い洞窟空間に、天上から垂れ下がる鍾乳洞、反響する物音、懐中電灯の灯り……地下河川の中では独自の生態系もはくぐまれています。, しかし、行ってすぐ、だれでも見られるわけではありません。